コマンド「みんななかよく」の有効性
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「○○に、いじわるされた」
子どもと話をすると、時々そんな話をする事があります。
話を聞くと、その「されたいじわる」について色んな話をつらつらしてくれるんですが、何しろ子どもの話なので、要領は得ませんし、そもそもそれが事実に基づく話なのかどうかは、僕にはさっぱりわかりません。
もちろん、だからと言って、僕に話しをしてくるという事は少なくともその瞬間には僕に「その話を聞いて欲しい」とか「これについて話したい」と思っているんだろうと思うので、とにかく話し終わって満足するまで聴くように努めています(もしかしたら、「いじわるするヤツは許さん!」とかって言うのを求められているのかもしれませんのでこの対応で良いかどうかはわかりません。今のところこうしている、という保留がついています)。
更に話しを聴くときには、疑問に思うことを聴いてみるようにもしています。そうすることで、「(僕にとって)何だかよくわからない状況」が見えてきたり、「そもそもなぜそういう行動をしたのか」を本人があらためて考えるきっかけになったり、そこから何らかの気づきに繋がる事も、見ているとどうやらあるようです。
子どもの年齢が上がるにつれて、今回のようないわゆる「他人とソリが合わない」というような話をする機会が増えてきているので、これが俗に言う「心の成長過程」というやつなんだろうなと思って、そんな話を聴いている事が多くなって来ているんですが、そんな時にウチの子どもは決まってこんな事を言っています。
「○○はいじわるしてくるからなかよくしたくない」と。
そうすると、僕は大抵こんな話をします。
「仲良くできない人と無理して仲良くしようとしなくても良いのでは?もちろん、仲良くしないからと言って、意地悪をする必要も無いと思う。無理して仲良くしたり、相手に意地悪をしたりすると嫌な気持ちになると思うけど、どう?仲良くできない人と、仲良くしようとするよりも、仲良くできる人とか、自分が仲良くしたいと思う人と仲良くした方が楽しいんじゃない?」
こんな話をすると、どうやら概ね僕と同じように感じているらしいのです。
自分が子どもだった頃を思い返してみると、「お友だちとなかよくしましょう」というフレーズは散々聞かされてきた記憶がたくさんあるし、よく歌っていた歌の中でも「友達百人できるかな」なんて歌詞が出てきたりしていて、今思うと、そういう外部から与えられてきた価値観が知らないうちに自分の中にインストールされ、これも知らないうちに「それ以外の価値観を抱く=悪」みたいな価値観ができあがっていたのではないかなと、今振り返って思うんです。
ここに書いた事は、「今の僕が言いたい事を、過去の自分が「そう感じていた」って事にして正当化しようとしているのかもしれない」っていう疑念を自分自身に持ちつつ、それを自分に向けて考えたうえでここに書いているのは、言うまでも無い事なんですが一応書いておきます。
こんな事を書くくらいなので、僕には「お友だちとなかよくしましょう」とか「友達百人できるかな」に対しての違和感とか疑問が子どもの頃からずっとあったんです。
子どもの頃からずっとそんな違和感や疑問はありましたが、それを口に出して大人に訊いてみるという事は、記憶にある限りではした事がありませんでした。
「そんな事を訊いたら怒られる」と思っていたからです。
なぜそう思ったのかについての経緯というような具体的な事象は覚えている中にはありませんが、「そう思うのが当たり前になる環境が整っていた」というのは間違いなく言えるくらいの、周囲にいる人達(特に親や先生がメインなんだとは思いますが)からの関わりがたくさんあったんじゃないかなと想像しています。
子どもだった当時の僕について、今の自分が思い返しても「よい子」だったとはあまり思う事はありません。品行方正でも無かったと思うし、でも飛び抜けて悪い事をするわけでもなく、かといって性格が良かったという事も無かったと思うし、勉強もできるわけでは無かったし、運動が飛び抜けてできるような子でも無かったし、つまり、いわゆる「どこにでもいるような一般的な子ども」だったと思います。
そんな極めて特殊な環境で育ったわけでも無いであろう自分のような子どもが感じていた「みんなとなかよくしましょう」的な考え方を、当時の僕は、その言葉通りに受け取っていたんだと思います。その上で、それに対して違和感があった。でも、それを誰かに言うことはしなかった。つまり、それが世の中のスタンダードだったと言っても過言ではないんじゃないだろうなと思うんです。「違和感があっても誰も口にしない世の中。なぜなら、“素晴らしい唯一の価値観”は既に存在しているんだからそれに従えば良い」という風潮や空気や文化が存在していたんだと思うんです。
それから40年くらい経って、今のこの社会では「“みんなとなかよく”が出来ればいいでしょうけど、なかなかそうもいかないよね」という事を、昔に比べて多くの人が口に出したり行動に起こしたりしても何の違和感も無いような時代になったなあと思うんです。
でも、その一方で、未だに40年前に主流だった価値観を自分の中の中心に据えて、「それ以外はみとめません。だって、“みんなとなかよく”できるのが一番良いに決まっているんだから。だから、それが出来なければダメです」というような考え方をする人の存在を、よく見聞きする事があるわけです(これが、主に僕と同世代以上のいわゆる「年寄り」に多いのかと思いきや、若い人にもたくさんいるのを見聞きしているので、年代の話でも無いんです)。
僕自身の経験から、「子どもの頃に“これが絶対だ”と言われ続けてきた考え方は、それに対して違和感を持っていても知らないうちに内面化されて、自分の考え方や言動に大きな影響を及ぼす」と考えています。
だから、ウチの子どもには、「それだけじゃない考え方もあると思う」という事を伝えるようにはしていきたいなと思っています。
だけど、僕の経験がどうあれ、僕の考え方がどうあれ、「最終的に判断して行動に起こすのは本人である」というのは、子どもだろうが大人だろうが同じだろうと僕は考えているんです。
なので、「相手が自分に意地悪する子であっても一緒に遊びたいと思う」のであれば、それは僕が制止するような事では無いので、本人が気の済むようにすればいいのかなと思います。自分の身をもって体験しないとわからない事もあるのかもしれない、とも思ってはいるので。
伝えたいのは、「色んな考え方があるし、色んな道筋の作り方がある」って事だけなんです。
「みんなとなかよく」ができればいいとは思うけど、現実的には、自分からするととてもそうは思えないような言動をするヤツがいる。そんな時でも、「みんなとなかよく」という価値観は大事にして守らなければいけないのか?
そんな疑問が浮かんで来たら、何も気負わずに、「みんなとなかよくはしないけどなかよくできるならなかよくする」という選択肢があっても良いんだ。そういう考え方もあって良いんだ。それも尊重されるものだし、それは自分だけのそれが尊重されるわけではなく、相手のそれも尊重される。そうやって自分の周囲の人と関わっていくという考え方もある。
そして、その時に、もし相手や誰かが自分の考え方や価値観などの「大切なモノ」を傷つけたり奪おうとしてきたり掠め取ろうとか騙し取ろうとしたり利用しようとしてきた時には、徹底的に闘う。相手が、もう二度とそんな事をしてこなくなるまで、様々な手段を使って徹底的に闘う。それが生きていくっていう事なのかもしれない(闘い方は色々あります)。
そんな事を、子ども相手に話したりしています。
これからどんどん子どもが大きくなっていくにつれて、どんな話が増えていくのか、そして自分はどんな話をする事になるのか、それに対してどんな反応をされるのか。
そんな事を考えると、いつも、「自分の在り方を見つめ直さないといけないなあ」なんて思います。
そのうち、「あなたは自分の考え方からまず改めた方が良いのでは?」と子どもに言われる日が来るかもしれないので、そうならないように、そして、そうなってもちゃんと考え直す事ができるように、自己研鑽という“己との闘い”はとにもかくにも必須だなとあらためて思っています。
あかね
株式会社プロタゴワークス
#ビジネス #仕事 #群馬 #高崎 #対話 #組織開発 #人材開発 #外部メンター #哲学対話 #主役から主人公へ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?