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不変に見えても千変万化

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「これは、自分にとって大切なモノだ」と思っている“それ”って、本当に自分にとって大切なモノなんでしょうか?

例えば、僕の場合は今年の2月頃にいきなり体調不良に見舞われて以来、それより以前のようには自分の体の一部を自由に扱うことが出来なくなってしまいました。
そんなことになるまではずっと「ウエイトトレーニングは自分にとって大切なモノだ」と思っていたので基本的には毎日仕事終わりにジムに行っていたんですが、体調不良になってからは具合が悪かったのもあったわけですが、パタリとジムに行かなくなりましたしトレーニング関連の情報を取得することもしなくなりました。

あんなに「ウエイトトレーニングは自分にとって大切なモノだ」と思っていたし、その当時は心の底からそう思っていたはずだったんですが、そう思っていた時のようには体が動かなくなってしまって以降は、あれだけ自分の中に大きく熱くあったはずの“なにか”が失われてしまったような感覚がありました。

それから半年近い時間が経過して、ふと思い立ちトレーニングを再開してみたんですが、そもそもサボっていたので色んなモノが衰えていたのは仕方ありませんが、それからしばらく継続してみてあらためて色々を確認してみたら、単純に「サボっていたから」ということだけではなくて、何もかもが以前の自分とは違っていることがハッキリわかったので、今現在のトレーニングをしている理由は体調不良以前とは全く別のモノになっているような気がしています。

そう考えると、あの頃に「トレーニングは自分にとって大切だ」と考えていた理由はきっと“体に不調が無い自分”を大前提にしつつ「トレーニングを続けていくことでより重い物を持ち上げて、体も成長していくこと」がそのほとんどだった気がします。

でも今は、「体に不調があって一部思い通りに動かない状態の自分がトレーニングを継続することで、体の機能をどれくらい取り戻せるのか、以前のようには動かせない体で運動することで、この体をどのくらい成長させることができるのか、その上でどれくらい重い物を持ち上げられるようになるのか、それを確認していくこと」が理由になっているような気がします。

こうやって考えてみると「トレーニングは自分にとって大切だ」という“大切なモノ”は全く変わっていないように見えますが、でも実際には「大切ではなくなった時間」が確実に存在していましたし、それを経て、「大切だと思う理由」も変わっています。そうなってくると、「“大切なモノ”には変化があった」と言えるのかもしれません。

むしろ、「たまたま“大切なモノ”自体が変わらなかっただけ」だという事もできるのかもしれません。

何しろ、“以前の自分”も“今の自分”もやっていることは“ジム通い”ですし、ジムでしていることも“ウエイトトレーニング”ではありますが、そのメニューも違えば目的も違えばやっていることもまるで違います。言ってみれば、“競技のための練習”と“リハビリ”くらいの違いはあったわけです。“漫画本”と“学術本”も同じく“本”ではありますが全く違いますし。

となると、以前と今の自分が“大切なモノ”としていたこれらを“ウエイトトレーニング”の一言でまとめて考えてしまうのはもしかすると乱暴ってもんなのかもしれないよなぁ、なんて思えてくるわけです。

そんなことを考えつつ、冒頭の“自分にとって大切なモノ”について考えてみると、もしかしたら“時間の経過”とか“己の変化”によって「これは、自分にとって大切なモノだ」と思っていた“それ”は、本当は全然違う“なにか”に変わっている可能性は大きいんじゃないかと思えてくるわけです。

と言うよりも、時間が経過したり、自分自身が変化成長しているわけですから、「これは大切なモノだ」と思っている“理由”が大きく変わっている可能性があると考える方が自然なんじゃないかなとすら思えてきます。

いつかの自分が「これは大切なモノだ」と感じていた“それ”が、今あらためて向きあって考えてみることで、以前の自分が思っていたようなモノでは無くなっていることもあるかもしれませんし、全然違うなにかに変わってしまっているかもしれませんし、そもそもの理由が消えていたり変化していたりするのかもしれません。

だけど、それはきっとネガティブなことでは無いんじゃないかと思っています。

だって、僕たちは、その間ずっと、懸命に生きてきたわけですから。

生きていれば色んなことがありますし、色んなことを考えますし、色んなことをするわけです。それに、細胞は時間をかけて入れ替わるなんて話もあるわけです。それなら、「生きてきた」ってことは、「変化し続けてきた」ってことでもあるわけです。その変化を、意図しているかどうかとか、自分で気が付けているかどうかとは無関係に。その変化が“成長”なのか“老化”なのか、それとも別の呼び名があるのかどうかもよくわかりませんが、人間という生き物である以上は「生きてきた」んだから「変化し続けてきた」ことは間違いありません。

生きてきて、今も生きているんだから、望むと望まざるとにかかわらず“変化”はしちゃっているって考えて、自分自身の中をよく観察してみると、今までに気付けなかったような発見があるんじゃないかなと思っています。

だから、「大切だ」と思っていたモノが大切だと感じられなくなったとしても、「大切だ」という理由が以前とは変わっていたとしても、大切な“それ”が別の何かに変わっていたとしても、それはそれとしてしっかり受け止めて、吟味して、受け入れていけばいいだけなんじゃないかと思っています。

「以前の自分が“これは大切なモノだ”と思っていたはずなのに、今の自分にはそう思えなかった」

仮に、そんなことがあってショックを受けたとしても、「自分は、これに対して、なぜショックを受けたのか?」を考えることに繋がって、更に自分を掘り下げる材料が増えてラッキーだったと思えれば、それはそれで本当にラッキーだったことになるのかもしれません。

大切なモノはそれ自体もその理由も変わっていくし、ショックを受けたこともラッキーに変わっていくし、何もかもが変化していくのは当たり前でもあり仕方のないことなのかもしれないし、そんな中でも変わらないモノがあったとしたら、よくよく観察してみると、変わったところと変わっていないところが段々よく見えてくるようになるのかもしれません。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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