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無限マトリョーシカになれたなら

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

ここ最近、すこぶる体調が悪くてとても困っています。

「体調が悪い」とは言っても、発熱しているとか体がダルいとかそういう感じでは全くなくて、とにかくただひたすら“痛み”が続いている状態です。

一日の中でその痛みを感じない時間があるとすると、寝ている間くらいで、それ以外の時間は程度の差はあれどとにかくずっと“痛み”を感じています。

ただ、その痛みの原因はどうやら神経痛というものらしく、これまでの人生の中では感じたことのないような類いの"痛み”であり、その痛みの原因も通常の怪我のように「傷めているところを動かしたら痛みが出る」というようなモノではないので、“痛み”が出たらそれ以上強い痛みに変わっていかないように願うだけですし、痛みが出ていない時には“普通に生活できる”ということに対して幸せを感じながら暮らしている感じです。

これまでの人生の中で様々な怪我によって色んな“痛み”を経験してきた中で、最も痛かったのは純粋な“痛み”によって大人になってから涙を流した“ギックリ腰”がNo.1でした。今のところ僕の中ではこれを塗り替える“痛み”はありません。

でも、今感じている神経痛による“痛み”はその度合いこそ“ギックリ腰”よりも弱めではありますが、その対応のしづらさや、痛みの継続時間や、痛みの強さの度合いの変化などの総合点で考えてみると「これまでに最も我慢しづらい“痛み”」だとも言えるような気がしています。

この痛みが出始めてからもう1ヶ月以上の時間が経過しているんですが、ここ最近ではこの“痛み”について、「自分にとって“必要な修行”を積めるよい経験の機会だ」と思えるようになってきました。

もちろん、大前提としては「こんな痛みを知らずに人生の最後を迎えられた方が良いに決まっている」とは思っていますので、もしも今の僕のような神経痛を患っていないのであればそれはそっちの方がいいに決まっています。これはもう本心からそう思います。

ただ、そう思っていたとしても「この神経痛を患う前の自分に戻る」ということは、僕がどれだけ幾ら強く望んだとしても絶対に叶いません。

であれば、今現在もこうして“痛み”で顔をしかめながらキーボードを打っている状態すらも、どうにかして「自分にとって“役に立つこと”」に変えていく必要があります。

ということで、僕は今現在も感じている“痛みを感じ続ける日々”をどうにかして「自分にとって“役に立つこと”にできはしないか?」と考えてみることにしました。どうすると、今の自分の体の状態を“役に立つこと”に変えられるんだろうか?“痛み”を感じなくする方法について考えてみたところで、世の中で推奨されているあらゆる方法を試していって一つずつ検証していく必要があります。だけど、そんなことをしている時間はありません。であれば、この“痛み”がーあまりこう考えたくはないけれどもー、仮に「今後一生治らないんだとしたら、自分はどう生きるか?」という感じで考えてみることにしてみました。

そうして僕は、常に感じ続けているこの“痛み”について、こう考えてみることにしました。

「どうせ、この痛みを感じなくなることが無いのであれば、こうして“痛み”を感じている自分を客観的に観察してみて、外側から眺めてみることで、第三者の自分の視点で“痛み”を感じている自分自身をじっくりと傍から見てみたらどうだろうか?」なんてことをやってみようと思い立ちました。

何しろ、何をしていたとしても、そして、何もしていなかったとしても、結局のところ四六時中痛いんです。
だったら、どうせ痛いんだから、その“痛み”を感じている自分を、第三者として、観察者として、外側から観察してみることで“痛み”によって「もう何も考えられなくなるし余裕が無い」という状態にならないようにできるかもしれないし、実際にこの「外側から“痛みを感じている自分自身”を客観的に観察してみる」をやってみたところ、随分と自分の内面は穏やかになってきたような感じがします。

もうちょっと正確に言うと、“痛みを感じている自分”の内面はあまり穏やかではありません。とにかく「痛い!めっちゃ痛い!マジでもう無理だ!耐えられん!」なんて具合に“痛み”の強さにによっては本当に可哀想になるくらいの痛がりようをしています。

でも、“そんな自分を外側から観察している自分”の視点では、内面はかなり穏やかです。「ああ、そりゃあ痛いよね。でも、自分が感じているその“痛み”と、自分の周囲にいる人達の状況は一切何の関係性も無いので、例え自分が“途轍もない痛み”に苛まれているからと言って、その余裕の無い状態で周囲の人に接するのは全くもってお門違いも甚だしいぜ」という感じで、“痛み”によるパニックを回避して、自分の言動を制御できるようになってきました。

とは言え、この“制御”がいつでも100%できるのか?と言えばそんなことはありません。

不意に何の前触れも無く“全力全開の痛み”が襲ってきて、尚且つ、それと合致したタイミングで何らかのストレスフルな出来事が起きたりすると、まだまだ全然“制御”はできません。

でも、「自分の感じているこの“痛み”と、周囲の人とは全く何の関係も無いんだ」ということは、「自分自身の内面を外部の第三者として観察する」ことによって、随分と切り分けが可能になりましたし、“痛みを感じている自分自身”を少し遠い距離から「ただ眺める」ということができるようになってきました。

そんな感じで、この途轍もない“痛み”が、当初は「僕にただただ強烈なストレスを与えるだけの最悪な災厄」だったにもかかわらず、今では、「僕にとっての“役に立つこと”」というモノに姿を変えました。

とは言っても、“痛み”自体が持つ性質は何一つ変わっていませんし、相も変わらず「僕に強烈なストレスを与えてくるモノ」であることは変わりません。そして、「無ければ無い方が良い」のも間違いありません。

でも、この“痛み”が僕にとって“役に立つこと”に変わるように、自分の心持ちや“痛み”の捉え方を変えただけで、この“痛み”が僕にもたらしてくれるものが全く変わりましたし、そもそも、ちょっと前には「この“痛み”から恩恵を受けられる」なんて想像すらもしていなかったのに、今はこうして、客観的に“痛み”を感じている自分自身を眺めるという、言ってみれば“かなり高度な客観視”ができるようになってきました。“以前の自分”について、誰よりもよく知っている(つもりの)僕からすれば、こんな“高度な客観視”ができるようになる日が来るなんて一度も想像したことすらありませんでした。

それもこれも、こんなヤバ目な神経痛を患ったおかげなので、一時期は「こんな痛い思いをさせやがって!」と、“呪い”続けようかとすら思った“ポンコツな自分の体”でしたが、今は「こんな高度な客観視を授けてくれてありがたいぜ」と思えるようになりました。ゲンキンなヤツです。

もちろん、「いつかは治って欲しい」と思ってはいるので、そこに向けて“できること”は行動に移していますが、「まあ、治らないならそれはそれで」とも思えるようになってきたので、もしも“このまま”だとしても特にそこまで精神的なダメージを受けることにはならないような気がしてきています。

何しろ、もしも”精神的なダメージ”を自分が受けたとしても、”そんな自分”をも外側から観察してみることで「なるほど。自分はそこにダメージを受けているのか」と俯瞰して見ることができるでしょうし、更にその”観察している自分”をまた観察して、「そこに感心しているのか」と俯瞰して・・・なんてまるで終わりの無いマトリョーシカか、延々と続く合わせ鏡の中にいる自分のような感じになるかもしれません。

とりあえず、今日もこのあと“できること”をやりながら、“痛み”を感じる自分自身を外側から眺めてみて「ひどい神経痛に苦しんでいるオジサン」を観察してみようかと思います。今日は、寝るときに痛みが出ないで、グッスリ眠れることを祈りつつ。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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