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気付いたんなら変われるかもね

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、昔からの習性やクセは、この歳になってもなかなか治りません。

僕は昔から、物を食べる時の一口が大きかったり、その割には、あまりよく噛まずに飲み込んでしまう習性があるので、物を食べるのは速いんですが喉に詰まらせる頻度も高く飲み物が無いとキツイというところがあるのを自覚しています。

なので、子どもの頃は親から「よく噛んで食べなさい」と何度も言われてきましたが、それでも未だにこの習性はそのまま根強く残っています。

他にも習性やクセはたくさんありますが、その中には「自覚できているモノ」と「自覚できていないモノ」があるんだろうなと思っています。

今ではもう過去の話なんですが、その当時は「自覚できていないクセ」だったモノの中に、忘れられないモノがあります。

子どもの頃の記憶が薄れている自覚がある僕にしては、未だに鮮明に覚えている数少ない小学生の時のエピソードです。


あれは小学2年生だった頃のこと。

その当時を思い出すと、「あの頃の自分は、人間よりもサルに近かったんだろうな」と思ってしまうくらいには何も考えずに生きていた僕は、学校と言えば「体育の授業」と「給食」と「昼休み」だけを楽しみにしていました。

体育以外の授業が楽しいと思う事は無く、大抵どの授業も仕方なく受けていたような記憶が今でもうっすらと残っています

そんな「数少ない楽しみな時間」の中の一つである給食の時間の話です。

どんなシチュエーションだったかは覚えていないんですが、給食を食べている時に、当時の担任だった先生が、僕の目の前で、僕に対してこんな事を教えてくれました。

「食べる時は、口を閉じて食べようね。口を開けて食べるのは犬とかと一緒だよ」

正確な文言は覚えていませんが、おおむねこんな内容の言葉で、僕に「咀嚼の仕方」を教えてくれた先生が食べ方の実演をしてみせてくれたんです。

実際に起きた事で記憶しているのはこれだけの内容なんですが、文章で描写するとこれだけだとわかりづらいかもしれないので、補足で説明をすると、当時の僕は“クチャラー”だったようなんです。

「クチャラーだったよう」と書きましたが、僕自身はその自覚が全くありませんでした。

自覚が無かったんですが、先生にそう言われて、とても恥ずかしく感じたのを覚えています。

そこら辺の細かい経緯を全く覚えていないんですが、「とても恥ずかしかった」と感じたというのは物凄く覚えがあるんです。

なぜなら、そこを境に、「物の食べ方」についてとても気にするようになったからです。

そして、その瞬間から自分の食べ方も、人の食べ方も、いつも気にしながら物を食べるようになっていました。

なので、僕自身は「クチャラーである自分」を認識した事がありません。あくまでも、「先生にそう言われて食べ方を注意されたから」自分が口を開けた状態で物を咀嚼していたという事なんだろうと“推測”していますし、自分の食べ方を気にしているから口を開けたまま咀嚼しない事が出来ているんだろうと“推理”しているだけなんです。一度も自覚した事はありません。

だけど、「絶対に口を開けて咀嚼なんてしていない」と先生に言われた事を否定的に捉えた事もありません。ただただ「あんな注意をされて恥ずかしかったから二度とされないように」という強い想いがあったのだけを覚えています。

もしかしたら、あの時の僕は、自覚していない事を注意されて「傷ついた」のかもしれません。今となっては分かりませんし、あの当時は、それこそサルに近い生き物だったので「傷ついた」なんて表現する事も出来なかったんだろうから、自分の記憶には「恥ずかしかった」という記憶だけが刻まれています。

そうして、家では、兄弟に対して「物の食べ方」について、自分が先生から言われたように注意をしまくって家族から煙たがられていた記憶があります。もしかしたら、「傷ついた自分」を慰める為に、自分が言われた事を兄弟に対して「お前ら知らないだろう」と思いながら指摘する事で自分の心を癒そうとしていたのかもしれないなあと、今は思っていて、「うん。軽く言っても最低だったな」と反省しつつあります。

これを書いていて、僕も僕の兄弟達もみんな揃ってクチャラーという事だったんだなあとあらためて気が付いて、我が家族の事ながら、若干引いているところでもあります。

給食以外では基本的に家でごはんを食べていたので、恐らく、僕は家庭で「咀嚼の仕方」について注意を受ける事が無かったんだろうと思いますし、家庭で言われた記憶もありません。ただ、箸の持ち方とか箸の使い方とか食べる時の姿勢とか米粒を残すな等については相当言われた記憶があり、咀嚼の仕方についてだけ躾けられなかったという事なのかどうか若干の謎が残るところではありますが、この件について大人になってから親(クチャラーではない)に確認した事は無かったので、そこのところについて今度聞いてみようかと思っています。

そんな、「自覚していなかったクセ」と、「自覚する前にクセが無くなった」という話なんですが、僕個人としてはこの時の先生に今でも感謝しています。

40年近く経っても未だに覚えている「恥ずかしかった記憶」ではありますが、あの瞬間に「自分で自覚する前に、クチャラーである自分が消滅した」おかげで、もしかしたら「クチャラーのままの自分」が引き受けなければいけなかったかもしれない現実は、僕の目の前にあれから一度も出現せずに済んでいるわけです。

ここまで書いたのは、「自覚できていなかったクセを自分で認識する前にそのクセ自体が消滅した」という、自分の持っている習性やクセの中でも極めて稀な例について書いてみました。

だけど、基本的には「自覚できていても修正できていない習性・クセ」の方がたくさんあるんだろうし、「自覚できていない習性・クセ」もまだまだたくさんあるんだろうと思っています。

そんな「昔からの習性・クセ」の中でも、他者との関りにおける場面で出るようなモノをそのままにしておく事は、後々、自分自身の障害になる事もあるかもしれないなあと感じる事があります。

そして、それは、僕だけじゃなくて他の人に感じる事もたくさんあるわけです。何しろ、「自分の習性・クセ」よりも「他者の習性・クセ」の方が、当然ですが、よく見えるわけなので。

特に、一緒に会社をやっている仲間については、「その習性やクセ」によって、もしかしたら自分達の会社や仕事を窮地に陥れてしまう事になる可能性を多分に孕んでいるかもしれないので、ウチの会社では「お互いの習性やクセ」について、よくよく慎重に見る事と、気が付いたらお互いに伝え合う事を、社内の決め事にしています。

中でも、「思考の習性やクセ」には要注意です。

これに気が付かないと、自分達で自分達の墓穴を掘っておきながら、みすみすその穴に飛び込んでいくようなことになりかねません。

と言うか、

ついさっきも、危うく、そうなるところでした。

僕も仲間も、お互いに強い「思考のクセ」がありますし、そういう部分があるという事は自覚しています(どんなクセがあるのか自覚できていない部分が多い)。

それが、時には「強み」にもなり得ますが、時には「途轍もない弱み」になります。
そして、「弱み」になる時には、そこから綻びが起き始めて、「弱み」だと気が付いた時には手遅れ気味になっている場合がありますし、そもそも、気が付けただけでもラッキーであって、気が付かずに綻び続け、いつの間にか終わりが見えてしまう事もあるんじゃないかなと思うんです。

そうなる前にどれだけ早く気が付けるか。
どれだけ、“微弱な違和感”を察知できるか。
どれだけ、「恐れずに、その違和感を相手に伝える」ができるのか。

それを伝えると、「相手に傷を負わせることになるかもしれない」怖れがある。
それを伝えると、「相手に“攻撃された”と受け取られるかもしれない」怖れがある。
それを伝えると、「相手との関係性が壊れるかもしれない」怖れがある。
それを伝えると、「その結果、自分が傷を負うかもしれない」怖れがある。

そんな様々な怖れを超えて、「何が起きても、自分達の使命を忘れずに、主人公として生きるという生き方ができるかどうか」。そう考えられる勇気を、自分が発揮できるかどうか。

最後は、これに尽きるのかもしれないと思っています。


僕は、仲間を信頼しています。

今までの仕事人生において、こんなに頼りになる人に出会った事はありません。日常の細かい部分についても、途轍もない障壁にぶち当たった時でも、これまでに何度も何度も助けてもらってきました。それによって前に進んできた事ばかりなのは間違いない事実ですし、この先もその信頼は揺るがないでしょう。そもそも、プロタゴワークスは仲間のお陰で存在していると認識しています。

でも、

僕は、自分自身については、かなり高い割合いで疑いの眼差しを向けています。これまでに、自分の人生において、自分で自分を何度も窮地に追い込んできてしまった実績があるし、それらの理由があまりにもどうしようも無さ過ぎてきたので。

だから、常に「客観的に」自分の能力や実力を、様々な尺度や角度から測定しようとして取り組んでいるつもりですし、己について「自信」というモノを強く持つというのがなかなか難しいなと感じる事が多々あります。

とは言え、

あの小学校低学年だった時分に、「途轍もない恥ずかしさ」を超えて「自覚していないクセを、自覚する前に消滅させることができた」という、自分の中にある「相手の言う事を真摯に受け止めて、納得して受け入れる事ができた場合には瞬時に変わる事ができる」という部分については、客観的に見て感心していますし、信頼しています。

この「相手の言う事を~」の部分については、この小学校時代から遥か時空を超えた今現在に至るまでの間に、何度も何度も、自分を窮地から救ってくれたというのは、客観的な事実として存在しているので、少なくとも「この部分」についてだけは「客観的に」自分を信頼しています。


本音を言えば、誰からも傷つけられずに生きていきたいけど、なかなかそうも言っていられないんだろうし、そもそもあんなに小さな自分が「クチャラーだった自分」を既に受け入れて生きてきているんだから、大人になった自分も「自分が信頼した人」からの言葉であれば「何を言われても受け止める」そういう用意を、これからも整えておくとしよう。

いざとなるとビビっちゃうかもしれないから、ゆめゆめ忘れないように、こうやって書いておきます。

よし。

これで、もう、逃げられない。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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