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時は今、場所はここ、在処は自分の中

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

気がかりな事が無かった時期ってあるんだろうか?

ふと、そんな事を考えました。

自分が思い出せる子どもの頃の記憶、とくに「楽しかった」と感じている記憶を思い出してみた時に、その頃の自分には“気がかりな事”はあったんだろうか?

例えば、小学校から帰ってきては毎日『ドラクエ2』をやりこんでいたあの時期、「1日1時間まで」という親との約束を破って、就寝時間になったからいつも通りの時間に寝たフリをして、子ども部屋にあったテレビで夜中にこっそりゲームを楽しんでいた頃。こうやって思い出してみると“気がかりな事”なんて全く無さそうな気もしてくるけど、実際には「やっていない事を自覚している宿題について明日先生に怒られるであろうこと」は気がかりだったような気はするし、その頃仲違いをしていた友達との関係性は気がかりだった気がします。

例えば、中学校で毎日部活のバスケットボールに明け暮れていたあの時期、フリースローが全然入らないなんて事が気がかりだった気もするし、中間期末テストで自分なりに頑張ったと思ったのに点数が全然上がらない事が気がかりだった気もします。

例えば、高校に通いながら始めたアルバイト先で、他のアルバイトの人達となかなか打ち解けられなかった事が気がかりだったし、学校からの帰宅途中で地元の駅を出ると時々見かける地元の知り合いがみんな何だか楽しそうに見えるのに自分はいつも「つまんねーなー」って思っているのが気がかりだったりしていました。

そんな気がかりな事は、大学時代も学生じゃなくなった後も仕事をし始めてからも、そして、45歳の今でも、常に何らかの“気がかりな事”が自分の心の中の一部だったり大部分だったり、時には、そのほとんど全てを埋めてしまう事があるんです。

そんな“気がかりな事”にまるで支配されているかのような僕であっても、四六時中、気がかりな事を気にして生きているわけではありません。多分。

気がかりな事をすっかり忘れていて思い出すことも無く「何か」に熱中したり没頭したり集中したりして暮らしている事も多々あります。

そういう時は、いわゆるマインドフルネス状態というやつなのかもしれません。気がかりな事は、気にかかってはおらず思い出す事は1ミリも無く、それとは全く関係の無い「その時している事」だけが心の中を占めているので、普段“気がかりな事”を思い出した時のような、「気が重い」とか「気分が沈む」とか「やる気がなくなる」とか、そういった類いのネガティブな事が湧いてこなくなっていたりするんです。と言うか、「あの時は、そういえばネガティブな感情が湧いてこなかったなあ」って思う感じです。

そうなってくると、冒頭の「問い」である「気がかりな事が無かった時期ってあるのだろうか?」については、こういう答えになるのかもしれません。

「そんな時期は無かった」

だけど、同時にこうも言えます。

「でも、そういう瞬間はいつだって在ったし、そうしようと思えばいつでも出来る(可能性が高い)」

つまり、「時期」という連続していてある程度の長さがある時間の塊というか「線」として時間を捉えてしまうと「気がかりな事が無かった」と認識できる可能性は出来なくなります。

一方で、「瞬間」という前後の時間と連続していない時間の「点」として捉えることで、「気がかりな事が無かった」と認識できる瞬間が「たくさんあった」と言えるようになるわけです。しかも、どんな「時期」における自分であっても。

こんな風に考えると、凄く面白いなあと思うんです。

たった1つの事象について考えているはずなのに、「時間」をどう扱うのか?という「問い」を持ち込む事で、全然異なる解釈と事実が生まれてくるわけです。

こうなると、大切なのはこういう事になってくるんだろうなと思えてくるわけです。

「自分自身は、どう捉えたいのか?」

そして、

「そう捉える事は、自分自身にとって、一体どういう意味があるのか?」

この2つの「問い」こそが、自分自身が「気がかり」だと感じている事柄を、「気がかりでは無い」モノにしていくために大事な事なんじゃ無いのかな、そう思ったんです。

時間を「点」で捉えて、「今この瞬間」に目を向け続ける。その時にしている行動は何だっていいんだと思います。「今この瞬間」に目を向け続ける事ができるモノであれば。だけど、それが出来る状態を作るためには、「自分の興味関心が向くモノ」である事も大事な事になってくるじゃないでしょうか。

何の興味関心も無い物事に取り組んでおきながら「今この瞬間」に目を向け続ける事ができる人というのがこの世界にはいるのかもしれませんが、少なくとも僕はそうでは無いので、前提として「自分の興味関心が~」という事に今回は一旦しておいて話を進めます。

そうなると、その時の自分が最も興味関心を持つことが出来るのは「気がかりなこと」が最も簡単に見つける事ができる最大の関心事なはずなんです。

現に、過去の僕は、上に方に書いた「その当時気がかりだった事」について、それらに目を向けて行動をしはじめてから「気がかりじゃなくなった」という事に、今日これを書きながら思い出したからこそ自分で気が付いたんです。


今の僕には「気がかりな事」がたくさんあります。

ここ1年間くらいの最大の気がかりだった事が、先日、思わぬ方面からやってきた働きかけによって(?)「気がかりでは無いこと」に急激に変化していきました。
すると、途端に、それまでは「気がかりランキング下位」にあったはずの事柄達が急浮上してやってきて、今の僕の心の中をまあまあ占めているような状態です。

それまでは、「最大の気がかりだった事1強時代」みたいな感じです。
気がかり界のゴールド・ロジャー的な。
そんなロジャーが倒れたその日から、「世は、大“気がかり時代”に突入した」んです。
数々の気がかり海賊団達が群雄割拠しているような状態です。

そんな、僕の中の“気がかり”達に、片っ端からケンカを売っていく必要があるんじゃないか。

今の僕はそう思っているわけです。

気分は、もう、あの麦わら帽子を被ったヤツになった心持ちです。

こうなったら、あの彼のように宣言していくしかありません。



「気がかり王に、俺はなる!」


・・・・・・。



あ、ダメだ。

「気がかり王」はダメだ。

これじゃ、“気がかり”を抱えまくっている陰気な王様みたいな響きだ。

これ、脱却できなくなってしまいそうだ。


ああ、何て言ったらいんだろう。

また、気がかりが一つ増えてしまった。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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