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まるでロボ。だがそれがいい

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「自分の手のひらを、自分の体のどこかにギリギリ触れないくらいの位置まで近づけているとジンワリ温かい感じしませんか?これが“気”らしいですよ」

誰かから聞いたのか、本か何かで読んだのか、テレビで見たのかはわかりませんが、いつだったかこんな話を聞いて実際に手を近づけてみて「あたたか~い」と実感して以来、「これが“気”なのだ」と信じていますし、いわゆる「神秘系」と呼ばれる武術にありがちだった“気”という概念を、周りの人が驚くくらいの程度にはガッチリと信じていたりします。

とは言え四六時中こんなことを考えているわけではないので、久々に冒頭に書いたような「手をかざす」をやってみたんですが、やっぱり「あたたか~い」と感じたので、「やっぱりそうっすよね」と誰にともなく心の中で呟きました。

そんな、「目には見えないけれども、間違いなく体感や実感を伴った状態で“存在する”と確信できるモノ」というのが、この世界にはたくさんあるよなぁとよく思うんです。

「空気読めよ」の文脈で使われる“空気”もその一つでしょうし、「コミュ力」とか「鈍感力」とかの「〇〇力」というのも目には見えませんし、「クオリア」も目には見えないけど確実に他者と共有できている実感があったりします。

そんな風に、「物体としての実態を一切伴わず(もしかしたら、「現代の科学力ではその存在の証明ができない」というだけかもしれませんが)、だけど、確実にこの世界に存在しているモノ」というのを僕は結構大事に考えています。

そんな僕が、いつもの如く仲間と対話をしている時に気が付いたのが、「学びについてのセンサー」でした。

その時、話に出ていたのが「全く同じ場で同じ学びをしていたのに、受け取ったモノや得られているモノが一切共有できないし、全然違うということが起きるのはなぜなのか?」ということを、これまでに自分の身をもって体験してきたことや、見聞きしてきた事例などをアレコレと話していた時に、いつものようにふとアナロジーがやってきました(実は、そのアナロジーが何だったのか・どんなモノだったのかは、その時には言語化できなかったんですが、今こうやって文字に書いてみた時にわかったんですが)。

その言葉にならなかったアナロジーは、冒頭の方に書いた“武術”です。

僕が師事している先生は「センサーを磨く」という言葉をよく使って技の説明や稽古の開設をしてくれます(「師事している」なんて書きましたがここ最近は全く稽古していませんが…)。

その「センサーを磨く」という話の際には決まって「センサーに繋がっている回路をつなげていってとっても繊細な感覚を養いましょう」という話もしてくれます。

もちろんこれも「センサー」とか「回路」とかのアナロジーを使って説明してくれているわけですが、でも、そういう「センサー」とか「回路」のようなモノが「自分の体の中に在るんだ」と強くイメージすることによって、実際にその微細な感覚がわかるような感じがしてきます。もちろん最初は「こんな感じかな?」くらいの怪しいモノですが、続けていると確かに以前は感じ取れなかった微細な感覚がハッキリと明確にわかるようになってきますし、その感覚を再現できるようになってきますし、段々とその感覚を意識しなくても自然にできるようになっていきます。頑張って何度も繰り返して継続すれば、ですけど、

そうやって「自然にできるようになった」という状態は、言ってみれば「自転車に乗る」のと似ているような気がしています。

「自転車に乗れるようになる前の自分の感覚」は、「自転車が乗れるようになってしまった自分」には明確に思い出すことは難しいはずです。だって、もう「わかってしまった」後ですから。「わかる前の自分」に戻ることはできないし、わかってしまった自分の感覚から思い出して何なら「こんな感じだったんじゃないかな?」と推測するくらいしかできません。でも、「わからなかった時の感覚」は確かに存在していたし、「わかった瞬間の稲妻を受けたかのような感覚」も確かに存在していたし、そして今現在の「わかった後の自然にできてしまう感覚」も今まさに存在しています。

そんな感覚と同じように、“学び”についても「センサーの感度」が存在していると考えると、「全く同じ場で同じ学びをしていたのに、受け取ったモノや得られているモノが一切共有できないし、全然違うということが起きるのはなぜなのか?」という“問い”に対する仮説が立ったわけです。

“学び”も正しい型で稽古することで「センサーの感度」が磨かれて、自分の中に「学び回路」とでもいうようなモノが繋がって開発されていき、それこそ当初は「学ばなければ!」と強い意志と高い意欲で臨まなければ何かを得ることが出来なかったような感覚だったものが、段々とそこまで明確に意識なんてしなくても、「あたかも、ただ見ているだけ」とか「まるで、ただ聞いているだけ」とか、なんなら「ただ、その場に佇んでいただけ」であっても、もはや「自然に学びとってしまっている」とでも言えるような感じでその“学び”を自分のモノにしてしまえるような状態になることが出来るんじゃないだろうか?

そんなことを考えましたし、そんな風になりたいなと思いましたし、いつかそうなれるんじゃないだろうか?なんてイメージをすることが出来たので、いつの日かもしかしたらそういう時がやってくるかもしれません。何しろ、「イメージできることはマネージできる」そう信じていますので。

ああ、でも、それには武術の稽古と同じように、日々の地道な積み重ねという「学びの稽古」を継続することが大前提にはなっていますので、それが自分にはなかなかハードな道のりだなぁと、考えただけで既に心が折れそうになっているところです。

とりあえず、明日からはじめるとして、今日は明日に備えてぐっすり眠るところからスタートだな。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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