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2022年10月9日(日)四街道教会の礼拝におけるメッセージを公開します。

聖書箇所は以下の通りです。先週の予告の段階では創世記を中心にお話ししようと思っていましたが、準備を進めていく過程でマルコによる福音書中心のお話になりました。私にはよくあることで、説教題が話の内容とリンクしていないためタイトルを変更しました。

創世記32章23〜33節
コロサイの信徒への手紙1章21〜29節
マルコによる福音書14章26〜42節

本文:

 おはようございます。先週の礼拝では世界聖餐日ということで聖餐の恵みについて改めて考え味わう時を持ちました。日本語に翻訳された福音書ではイエスを敵の手に引き渡すユダに「裏切り者」という言葉を用い、「裏切り者」のレッテルを彼一人に背負わせています。しかしそれなら他の弟子たちはイエスを裏切らなかったのかという話を先週いたしました。本日朗読された箇所ではまさにそのことに焦点が当てられており、イエスからすべての弟子たち対して「あなたがたは皆、私につまずく」と予告されています。イエスを裏切るのはユダだけではなく、イエスのことなど知らないと言って関係を否認するペトロも、逮捕されたイエスを置いて蜘蛛の子を散らすように逃げていった他の弟子たちも同じです。

 イエスはそのようにして自分の周りからいなくなっていく弟子たちにこう言います。「あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と。前半部分では要するに、弟子たち皆がイエスを裏切ることになるけれど、それは聖書を通して神が計画したことだから気に病むなというイエスなりのフォローでしょう。このイエスのフォローがあったためにこの後弟子のペトロにしろアンデレにしろイエスを裏切ったことに後悔したと思いますけど、最終的には精神的な体調を崩すくらい気に病むことなく後悔と反省を経て心新たに立ち上がって行きました。一方ユダはイエスを引き渡す役割を担ったことを大きく後悔し自責の念を持ちました。聖書に書いてあることが実現するためだから気にするなというイエスのフォローも届かず、ユダはこの出来事の後すぐに死んでしまったということを聖書は語っています。

 ある意味イエスですら救えない人がいたと聖書に書かれていることは私たちにとってとても大切な事柄だと思います。イエスの言葉や聖書の言葉に触れ続けていても、あるいはもっと世俗的に精神科医やカウンセラーによる精神医学的に適切なサポートを受けていても「希死念慮」に自分自身を深く蝕まれて命を絶ってしまう人がいるのがこの世の現実だからです。キリスト者であり精神科医として放送大学で教授として教えておられる石丸昌彦さんという方がいます。その方が「こころの病と信仰との関係」(『自死遺族支援と自殺予防』日本キリスト教団出版局、2015年)という文章の中でこのような説明をされています。

 「うつ病の患者には自殺願望がある」といった表現をよく見聞きするのですが、これは適切な言い方ではありません。願望とは人が本心から「そうしたい」「そうなりたい」と望むことでしょう。うつ病患者はそのような意味で「死にたい」のではありません。自分でも避けたいと思いながら、いつのまにか「死」のことが頭から離れなくなり、考えまいとしても考えずにはいられなくなる、願望というよりも強迫観念に近いものです。<中略>「自殺願望」という言葉は精神医学の正式な用語にはありません。そのかわり、………「希死念慮」という言葉が使われており、その趣旨は前述の通りです。死に引き寄せられるのは病気の症状であって、その人本来の願望ではないのです。

(石丸昌彦「こころの病と信仰との関係」(『自死遺族支援と自殺予防』日本キリスト教団出版局、2015年、36〜37ページ)


 これまでキリスト教の長い歴史の中で自死という事柄が罪の一つとして扱われてきました。しかしキリスト教界の中でも精神医学の発展によって解明された事柄を真摯に受け止め、一律的に自死を罪と断罪してきた過ちを認めて考え方を見直す流れが生まれてきています。信仰のあるなし、あるいは信仰の大小とうつ病という病気のなせるわざとしての自死との間には一線を引く必要があります。がんという病気が進行した後に起こる死を不信仰と結びつけないのと同じように、うつ病が引き起こす希死念慮の果ての自死を信仰と結びつけてはいけないということを私たちは知る必要があります。ユダはイエスを引き渡す役を担ったことに罪悪感を覚え、自責の念に囚われて精神的な病になり、その病が引き起こす希死念慮に蝕まれてついには命を落としたのだと思います。私たちが精神的な病を負った人たちをケアし、フォローしていくことは必要で大切な働きです。しかしその結果必ずしも病が良くなる、信仰があればそれが可能だということではないという現実を弁え、残念ながらうつ病が引き起こす希死念慮の果てに自ら命を絶ってしまう人がいる現実を受け止めたいと思います。

 さて自ら命を絶ってしまったユダに対して他の弟子たちはユダとは異なる人生を送ります。イエスを裏切った責任をあいまいにするでもなく、かといっていつまでもそのことを引きずっての自責の念に囚われていたのではなく、イエスに従う人生を歩み出そうと心新たに立ち上がっていったのです。それが今日お伝えしたい1番の事柄です。イエスが「あなた方は皆、私につまずく。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と語った「復活」という言葉が意味する内容がとても大切であり、私たちに命を与える言葉です。

 最近出版されたばかりの『旧約聖書がわかる本』(並木浩一・奥泉光著、河出新書、2022年10月)を読んでいます。長くICU(国際基督教大学)で教鞭を取られ旧約聖書、特にヨブ記研究の第一人者である並木浩一さんと、大学時代の教え子で今は作家として活躍中の奥泉光さんによる対談本です。今読んでいるところで特に印象に残ったのは並木先生が「不死」と「復活」は違うと述べられている部分です。「不死」というのはつまり死という終わりを経験することなく連続していくということです。でも「復活」の場合は一度死ぬで終わるんです。そこで一度連続が断ち切られ、その後に新しい命が始まり続いていきます。日本は復活ではなく不死の文化です。第二次世界大戦や福島で起きた原発事故をとっても徹底的に反省するということができません。徹底的に反省して例えば天皇制や原発を廃止してしまったらもう再起できないと信じているからです。だから何とか原因追求をしない方向、責任の所在をうやむやにして断ち切らない、死なない不死の方向へと進んでいこうとします。

 対して聖書の価値観を持って生きている人たちは過ちに対してうやむやにせず徹底的な反省、悔い改めを行います。間違っていたことに関してはそれを断ち切ることを厭いません。それは間違いを断ち切った先に神が新しい命を与えて再生の道、復活への道備えをしてくださるとの信仰があるからです。ヘブライ語聖書の時代からそうでした。ユダ王国がバビロニアに滅ぼされてバビロンに捕囚された時にも、イスラエルの人びとは自分たちの悪のために神の裁きにあったのだと考え、悔い改めて神に向き直れば神は私たちを再び起き上がらせてくださるとの信仰を保ちました。事実彼らは何十年も後のことですが捕囚から解放され、神殿再建の道を歩むことができました。聖書が示すのは不死ではなく死と復活の道のりです。

 ある出来事がずっと続いていくのではなくやがて断ち切られる。いずれ死を迎えるということは困難や苦難を経験している人にとって大きな希望です。世の困難や苦難はずっと続くのではなく終わりがあります。終わりを迎えた後には何も無いのではなく復活の時、立ち上がる時が用意されています。死と復活こそが私たちの希望でありこの世を生きていくための大きな力です。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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