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【随筆】悲痛

この度の令和6年能登半島地震、羽田空港での事故、年始の多数事件が起きた中で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、ご家族、被災された方々に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。

新年一本目の記事。
もちろん祝いの言葉から書き始めるつもりであった。
少なくとも1日16時までは。

その時間、神奈川県では激しく揺れたわけではないが、船上で波に揺られるような、ゆっくりと広範囲に揺り動かされる感覚があった。

終わらない。
長い。

テレビを点けると震度7の文字。
そして津波警報。
私はあの時の記憶がフラッシュバックした。

2011年3月11日。
私は宮城県大崎市で勤務中であった。
大崎市の震度は6強。
冗談ではなく、地球が終わったのだと思った。
揺れ始めから終わるまで約6分と言われている。
本当に歩くことも立ち上がることも出来なかった。
あらゆる物が飛び交い、落下してくる。
私もガスボンベの下敷きになったが、幸いにして大きな怪我をすることはなかった。
帰宅する際にカーナビのテレビに映っていたのは、茶色の濁流に流されて行く航空機。
何が起きているのか理解が追いつかなかった。
沿岸部から離れた街に住んでいた私には大地震=津波の可能性が結び付かなかったのだ。

津波は届かなかったが、自宅は半壊。
家の中は足の踏み場どころか、入ることすら出来なかった。
その後一ヶ月、電気、水道がストップ。
給水車や支援物資がとてもありがたかった。
当時はガラケーだったが、携帯電話の充電も不可能。
存在はしていたのだろうが、モバイルバッテリーなど見たこともなかった。

一ヶ月後、電気、水道が復帰した後、携帯電話も使用出来るようになると、親戚や友人の被災状況の情報が入ってくるようになるのだが、沿岸部に住んでいた一部の親戚と友人は津波に流されたと聞いた。
あの時の感情は何かおかしかったのだと思う。
悲しくはあったが、不思議と涙は出なかった。
連日報道される現実と受け入れたくない沿岸部の状況と、自分達の生活を立て直すことに必死だったからだろう。
膝から崩れ落ち、涙がとめどなく溢れ出したのは一年の時を経てからだった。

つまり何をお伝えしたいのか。

私にもわからない。

だが、限りなく近い距離で気持ちに寄り添うことは出来ると思う。
今現時点で掛ける言葉は見つからない。
被災された皆様も毎日毎時間必死な状況だと察する。
今も救助作業が続いている。

羽田での事故も、当該海保機は何往復も支援物資を積んで飛んでいたと見た。
亡くなられた方々は私と同年代。
緊急で出動された方もいたのかもしれない。
その正義感、責任感。
そして残されたご家族のことを想うと涙を禁じ得ない。

今後何らかの形で出来る限りの支援はさせていただきます。
私はあの時の感謝を忘れない。
被災者の方々、ご家族の方々がこの悲しみと苦しみから立ち直るには時間が必要だと思う。
それまで陰ながらではあるが支援は続けていく。

軽々しい言葉を書くことは出来ない。
今の自分に出来ることをする。
可能な限り。

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