【死】人の気持ちを勝手に決めるべきではない

『共感』とは、人の気持ちを推し量ること、理解することであると定義されている。だから、人の気持ちを理解しようとしたり、あたかも正確に推測できているような人のことを『共感能力が高い人』として、世間的には良いものとして捉えられているよね。

しかし、人の気持ちをそう簡単に推しはかれるものではないし、『気持ちを理解しようとしている』という言葉の暴力で以って、他人の気持ちを決めつける人だってたくさんいるんだ。そして、それが返って相手を苦しめることだって。

2019年の11月、ALS患者の女性が全く面識のない医師2人に殺害を依頼するという事件があったらしいんだ。その事件をきっかけに『安楽死』に対する議論が活発になったと言われている。

当然『安楽死を認めるべきだ』と言う議論である。

その理由は『そんな状況になったら、自分も死にたくなるだろうから
というものだったんだって。

ALSとは筋萎縮性側索硬化症のことで、体を動かすのに必要な筋肉が徐々に衰えていき、力が入らなく病気のことなんだ。話したり、ものを飲み込んだり、歩いたりすることも困難になっtしまい、挙げ句の果てには呼吸すらもできなくなるんだって。

確かに、そのALSの女性は死にたくなるほど苦しかったのかもしれない。死ぬ以外にその苦しみから逃れる方法が見つからなかったのかもしれないよね。実際のところ、その女性がどんな気持ちで殺害を依頼したのかなんて誰にもわからないんだ。

そして、だからと言って、ALSを患っている全ての患者がそのように思っているわけではないだろうし、ましてや、その状況になったこともない人が、想像だけで『安楽死を認めるべきだ』という極端な主張をするのは短絡的に見える。

日本では(日本だけじゃないのかもしれないが)、他人の気持ちをわからないながらもわかろうとすることが大切だと言われるが、僕はそれは間違っていると思うんだ。

それはどこまでも傲慢な行為にしか見えないんだ。

僕だってされたことがある。共感という名目で、僕の気持ちを決めつけようとする人間は過去にもたくさんいた。そんな奴似合うたびに人と話すのが嫌になるんだ。

ある難病を例に挙げて、その当事者が死を希望していることを良いことに、『そんな状況になったら、死にたいという気持ちは理解できる』というのは共感しているように見せかけて、実はその難病を患っている方の存在を否定するような言葉になりかねないんだ。

だから、何も考えずに私利私欲だけで『安楽死を認めるべきだ』というのはかなり飛躍し過ぎているように感じる。

ところで、安楽死には大きく3種類あるらしいんだ。

まず一つ目は『積極的安楽死』で、これは医師が致死薬を投与することなんだって。

そして二つ目が『医師幇助自殺』っていって、医師が処方した致死薬を患者が服用することを言うんだって。

そして三つ目が、延命治療を止め死を待つという『消極的安楽死』ね。

今のところん日本では『積極的安楽死』と『医師幇助自殺』は法律で認められていないんだって。

まぁ、もう少しの間認められそうもないんだよね。

なぜかっていうと、もちろんこれらの安楽死が認められている国もあるんだけど、そういう国は個人主義の国が多いんだよね。

個人主義の国では、例え家族や恋人であっても、その人の意見や主張は尊重しなければならないという価値観が染み付いているんだ。

だから、周りがどれだけ辛かろうが、本人がそれを希望するのであれば止めることはできないんだ。

その一方で、日本は集団主義国家だから、どうしても同調圧力だったり世間体とやらで、個人的な決断を尊重するようなルールにはできないみたいなんだ。

だから、そういった意味では仕方ないのかもしれないけれど、僕にはもう一つ引っかかることがあるんだ。

『死ぬ権利を認めるべきだ』という主張に対して『待った』をかける人の議論や主張を見ていると、やはりどこか『生きること』が善で『死ぬこと』が悪という前提が残っているように見えるんだ。

何処までいってもニュートラルな議論ではないんだよね。

例えば、安楽死以外にもその人を苦しみから解放できる方法はあるという主張はよく聞くよね。

例えば、新しいことに希望を見出してみるとか、新しい出会いを作るとか、苦しみを誰かにじっくり聞いてもらうとか。

確かにそれも一理あるかもしれない。科学的にもそれで苦しみが少しは癒えることが証明されていることだってある。

しかし、それらの苦しみから解放される方法として『死』が同じ位にあっても良いんじゃないかと思うんだよね。

それで死にたくない人は死ななきゃいいわけだし。

また、安楽死が本当になんらくかって問題もあるんだけれど、それは全くお門違いに僕には感じるんだよね。

だって、どれだけ冷静な頭で客観的に考えることができる人たちが議論して『理屈的に安楽を求めて死ぬことは正しくないからすべきではない』と言ったところで、それが死を望む当人に当てはまるかどうかは分からない。

もちろん、『もう死ぬしかない』っていう考えもだいぶ極端だと思うよ。

だけど、それが生きながら安楽を求めるのと同等の価値を持つ選択肢になっても良いんじゃないかと僕は思うんだ。

みんなはどう思うかな?

人の気持ちを勝手に決めるべきではない。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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