そら、そやろ。

この前、YouTubeのショート動画に、とある海外のYouTuberっぽい人がハーバード大学生にインタビューしている動画が出てきた。

他人のインタビューにはさほど興味はないが、その時はなんとなく見てみた。

すると、そのYouTuberっぽい人がハーバード生に『めちゃくちゃ勉強した?』みたいな質問をしていた。実際英語でなんて言っていたかは忘れたが。

それに対して『もちろん』みたいな感じで答えていたんだけど、僕はそれを見ながら心の中で『いや、そらそやろ』と思った。

なぜか昔から、一流大学と言われる大学の学生にインタビューする系の企画はすごく人気ではないか?

日本で言うと東京大学や京都大学、世界的に言うと、ハーバード大学やオックスフォード大学などの学生に対してくだらない質問をして『へ〜、すご〜い』みたいな反応をする一連の流れはお決まりになってきているような気がする。

その中でも『いっぱい勉強した?』という質問はほぼ間違いなく登場するのではないだろうか?

どうしてそんな質問をするのだろうか。

少し冷静に考えれば一流の大学の学生たちが死ぬほど勉強していることは明らかなはずだ。

もちろん、遺伝的に高い知能を持ち合わせた人間はごく稀にいるだろうが、その方が少ないだろう。

皆、そこに入りたくて、もしくは曽於を卒業したくてとてつもない勉強をしているわけだ。

どうしてそんな質問が出るのか、その目的はなんなのかについて少し考えてみた。

まずは、この質問をするときにどのような答えを求めているのかを予想してみることにした。

結論はどちらでも良いんだろうと思った。おそらく、Yesならば『やっぱり、そんな勉強をできるってすごいね』って持って行くんだろうし、Noだったら『やっぱり持ってるものが違うんだね』と100%遺伝に罪をなすりつけるという愚行に出るのだろう。

つまり、どちらに転んでも自分とその一流大学に行く人とは先天的な何かが違って、住む世界が違うという確信が欲しいのではないか、そして、その結果安心したいのではないだろうか。

よく、勉強ができない子はその原因を自分の頭の悪さに帰属させる。テストで良い点を取る人間はそれに向けてきちんとやることをやっているから取るのにも関わらず、『自分は頭が悪いから取れない』となんとも意味の分からない論理をぶち込んでくる。

少なくとも一年位トライしてみた結果、全くできないのであればそれは仕方がないと思う。

先天的に空間把握能力が低かったり、言語能力が低いというように、特定の知能が人より劣っている人はいる。

そういう人は確かに努力だけで一般かそれ以上のレベルまで持ち上げることは難しいかもしれない。

しかし、大抵の場合、そんなことはしていない。というより、そうやって自分の頭の悪さのせいにすることで安心感すら得ようとしているのでhないだろうか。

もし、その一流大学の学生が自分と同じくらいのIQ値だったとして、その人が努力だけでその一流大学に合格していたとしたる、それと比較して劣っている自分の責任は自分になる。

それだけはどうしても避けなければならないという強い意志すら感じることがある。

僕が塾で生徒に少し応用っぽい問題をさせると大体みんなできない。けど、ある程度点数をとってくるやつはきちんと考える。

こちらから手を差し伸べようかと言うまでは自力で答えに辿り着こうとする。

その一方で、『勉強ができない』と思い込んでいる奴はすぐにSOSを出してくる。

10秒も考えない。『こんなんできないですよ』とすぐに匙を投げてくる。非常にイラっとするがその気持ちをグッと堪えて、『よく問題読んでよく考えてみ』と促してみる。

すると『先生すぐ分かりました?』と聞いてくる。『分かったよ』と答えると、『じゃあ俺もできなあかんか』となってくれるのかと思いきや、そんな時だけ僕のことをまるで天才かのように祀りあげて、まるで僕と彼らが別人種かのような発言が飛び交うようになる。

そうやって自分の能力のせいにして考えることを諦めて生きてきた人間が、そう言うインタビューを見てさらに自分のことを正当化しようとしているのではないかと思う。

逆にしっかりと勉強ができる人間は点数が悪ければ、自分の努力不足を咎める。決して自分の知能が低いからだとは言わない。

Carol Dweckというアメリカの心理学者が行なっている学業不振対策の一環として原因帰属変更プログラムというプログラムがある。

このプログラムでは、学業不振の子供は自分の学業の失敗を自分の能力の欠如に帰属しがちなので、自身の能力ではなく努力不足に帰属するよう変更するというものだ。

まさに、先ほどから話している違いが反映されたプログラムではないだろうか。

確かに自分より圧倒的に優れている人を見て、自分とは全く別世界に住む人だと切り離してしまうことは簡単だろう。

走っているレースが違うんだから、自分がどれだけ頑張っても追いつくも何もないと考えた方が頑張らないことが正当化されるだろう。

しかし、結局は同じ人間であり、『そいつができたんだから俺にもできるやろ』と思っている人間の方が圧倒的に成長しているように感じる。

僕の話になるが、僕はオックスフォードでもMITでも卒業できると思っている。僕がイギリスにいた時、オックスフォード大学でケミストリーを専攻していた友達がいたが、彼のことを全く届かない存在だと思ったことはない。
なぜなら本気の努力でそこまでいけると思っているからだ。

そこまで自信過剰になれという話をしているわけではない。ただ、自分の可能性を卑下することで逃げ道を作っているのだとするとそれは危険なんじゃないかと危惧しているのだ。

そら、そやろ。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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