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歴史考察 ~本能寺の変~

 現在放送されているNHK大河ドラマ『どうする家康』。来週はいよいよ歴史上の謎が多い『本能寺の変』なんですね。毎週見ているわけではない私にとって「もう本能寺の変か~早いな~」と思っていたのですが、そもそも『本能寺の変』って武田家滅亡からわずか3か月後のこと(武田勝頼・信勝親子が天目山で自害したのが天正10年(1582年)3月11日、本能寺の変は同年6月2日未明)ですし、何より今回の大河ドラマの主役は織田信長ではなく徳川家康ですし。(信長の死で『どうする家康』終了ではない)


 その昔、「『NHK大河ドラマ』は歴史ファンにとっては物足りない、間違いだらけ」みたいな風潮がありました。なんつーか、盛り過ぎというか、演出多すぎというか(同じ?)

 ただ最近の『NHK大河ドラマ』を見ていると、脚本や時代考察もかなりしっかりしているし、出演者の演出も時代背景にかなり沿ったものになってきていると思います。まあ若干「あの時代にそんなモノはねぇ!」みたいなものがたまにあったりもしますが。


「信長を殺す。わしは、天下を取る」

 松本家康のこの台詞から「あれ? これ本能寺の変徳川家康黒幕説?」と思いながら昨日(7/16)の『どうする家康』とTwitterの実況を見ていたのですが、岡田信長と松本家康がお互いの葛藤をぶつけ合いながら次週『本能寺の変』へのどうなる感を高めていくような展開でしたね。(色々端折りすぎ)

 実際にあの饗応接待の席で、信長は家康(はじめ家臣団にも?)に毒を盛ろうとして止めさせたのか? 家康は光秀を排除(失脚)させるために臭う演技をして、それを見た信長が、光秀が命令を無視して毒を持ったものだと勘違いしてブチギレしたのか。

 そして、たったそれだけの原因で光秀は信長に反旗を翻す決心をしたのか。

 

 まあこれまでにもそれを決意するだけの恨み辛みはあったんでしょうけど。


 でも明智光秀ともあろうものが、一時的な怨恨程度で主君を弑逆するでしょうか? 失敗すれば一族郎党皆殺し、よしんば成功したとしてもほぼすべての織田家家臣団を敵に回し、戦乱の世に一気に逆戻り。

 そんな事にならないためにも、綿密に計画を練り、できれば敵を減らすためにも徳川家康を味方に引きずり込んでおきたいはず。


 当時の織田信長にとって、最大の潜在敵は徳川家でした。武田家を滅ぼした後に、富士見遊山と称して何日もかけて東海道沿いに徳川家の領地を通過した(このとき信長は、近衛前久の同行を断っている)のも、徳川家を攻め滅ぼすための下見だったと書かれた本がありました。そして、安土城に家康を饗応接待し、ついで本能寺に招待したのも、家康を討つためだったようです。(現に6月2日に本能寺で茶会が予定されていた ※諸説あり) その下ごしらえのために、本能寺に攻め入る部隊であった明智光秀の、安土城での家康の接待役を解き、秀吉の下で中国攻めに参加させるという命令を下すことで、畿内には織田軍団がいないという隙を作って家康を安心させたのではないかと思っています。


 そして畿内には主だった織田軍団がいない、主君・織田信長は僅かな供回りのみを連れて京都・本能寺に宿泊しているという状況を逆手にとり、明智光秀は未明に本能寺に攻め入ります。


『是非も無し』


 織田信長の最期の言葉として有名なセリフですが、実はその後に、もう一言かなり重要なことを口走ってたと言われています。


それが

『余は自ら死を招いたな』

というセリフです。

 信長はこのとき本能寺で自らが殺されることを予想していたのでしょうか。


 NHK大河ドラマの『どうする家康』では、おそらく自分の天下取りの後継者として、一番信頼できる弟分・徳川家康に指名したかったのでしょう。ですがお互い素直じゃない岡田信長と松本家康はそれができず、岡田信長は松本家康に自らに反抗心をもたせることで実力を持って受け継がせようとした。そんな感じがします。

 そしてTwitterの#どうする家康では、密かに『岡田信長✖松本家康』というBL展開が繰り広げられているように感じます^^;


 さてさて『本能寺の変』の真の黒幕、というか明智光秀をそそのかしたのはどこの誰なのか、光秀が主君を弑逆するという行為に走った真の目的とそこに至った経緯は何だったのか、秀吉はどの時点で本能寺の変の情報を掴んだのか、当時の同盟者だった徳川家康や朝廷・公家たちの動向や心境はどのようなものだったのか、歴史好きにとって興味は尽きないです。


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