見出し画像

公的支援を「最善手」と信じられる人が「福祉」を担える。


この1年、個人的に「福祉」と「心理」の違いのようなものを感じながら、相談業務に取り組んできたわけですが、そんな1年の備忘録です。

まず最初の大前提なのですが、これは非常に個人的な感想であることをご理解頂ければと思います。世の中には数えきれないほどの支援者がいて、様々な理念や思いを大切にしながら、日々業務に取り組んでおられるわけで、私の肌感覚は、その極一部に過ぎないからです。

とは言え、その極一部が、「もしかしたらある程度の多数派」である可能性が無いとは言い切れないので、現時点での備忘録として残しておきたいなと考えています。

「福祉」と「心理」の違いは、何を「最善手」と捉えるかの違い。

「相談者自身が持つ、内在的・外在的リソースによる問題解消を「最善手」とする「心理」畑

私は、心理援助的には「エリクソニアン」を標榜しています。

エリクソニアンは、ミルトン・エリクソンという精神科医をルーツにする一派であり、その根底には「人間の持つ回復力を信じる」という、人間性心理学と共通する部分があります。

人間性心理学と言えば、来談者中心療法のロジャーズが広く知られていますが、ロジャリアン(ロジャース派)が行うアプローチと、エリクソニアンの行うアプローチの最大の違いは、ロジャリアンが「受容・共感・自己一致」という支援者側の「態度」を重要視するのに対して、エリクソニアンは「クライエントが回復するなら、何でもアリ」という、いわば「型」を持たない点にあります。

私が分かりやすい例としてよく挙げるのは、仮に私がクライエントを怒らせて「こんな人に相談したのが間違いだった。あなたなら私を助けてくれると思ったのに、裏切られた。結局人間最後はひとりだ。自分でなんとかするからもういい!」と怒って帰ったとしたら、それはエリクソニアンとしては「正解」という話です。

だってこのクライエントは「自分で何とか出来ることに気づいた」のですから。エリクソニアンにとっては、「クライエントを(わざと)怒らせる」ことさえ許容される技法なんですね。もちろん、これが人間不信や自傷他害などに繋がると『失敗』ですから、あくまで「例」としてご理解ください。

ロジャリアンもエリクソニアンも、アプローチの方法は違えど「個人が活用しうる資源(リソース)を最大限に活用する」という点ではほぼ同じです。

ただその「リソースの引き出し方」について、ロジャリアンは「支援者の態度」を重視しているのに対し、エリクソニアンは「何でもアリ」だと考えている点が違うことになります。

話が少しそれましたが、私はエリクソニアンなので、「相談者が相談者の(内在・外在を問わず)あらゆるリソース(例えば友人や上司、公的機関、さらには『時間』など)を使って問題を解消する」ことが最善手であると考えています。

その上で、ロジャリアンもエリクソニアンも、「相談者個人」のリソースを活用して支援するのですから、その「支援者と相談者が、相談者自身と自らを取り巻く状況をより深く理解する」ために、「関係性の構築」を行うことを重視します。

これは、「心理」畑の人には、基本的には(アプローチとしての是非は横に置いて)納得頂けるのではないでしょうか。

「福祉」畑は、「公的支援」を最善手とする。

昔は自分自身のスタイルが確立していなかったこともあってか、あまり気になりませんでしたが、この1~2年で言えば、私が知った「福祉」畑の支援者は(それが広い福祉畑のごく一部とはいえ)、お世辞にも「相談対応が上手だな、見習いたいな、教えて欲しいな」と思える方はいませんでした。

むしろ、私が「これはダメでしょ…」と思う「ヒアリングタイプ」の方が、福祉畑では理想の支援者として提示されるのです。

なぜ、「カウンセリング」ではなく、「ヒアリング」が「理想の支援者」として提示されるのか…余りの違いに戸惑いましたが、しばらく色々と周囲の方の話を聞きながら考えて、ようやく納得できました。

それは、「福祉」が「公的支援」であることに由来しているからです。

介護、障がい、ひとり親…企業が利益の一部を用いて行うような支援を除いて、福祉制度には、何らかの「公的資金」が入っています。

公的資金が入っているということは、そこには「根拠法令」があり、その根拠法令によって各制度が運営されることになります。

そのため、その福祉制度の「対象になるかどうか」が、福祉畑の支援者にとっては、非常に重要なポイントになります。

つまり「相談者個人の力で何とかできるように支援する」というより、「制度の対象者かどうかの確認(=アセスメント)」をし、「対象者であればその制度を利用することが、相談者にとって最善手である」と考えるんですね。

そのため、対象者となるかどうかの「評価判断(アセスメント)」を、よりスムーズに行うのが、福祉的支援者に求められる「態度」です。

そう、ここでの「態度」は、「相談者とのラポール構築」や「自律支援」のためではなく、「制度適用に必要な情報収集(アセスメント)を可能な限りスムーズに進めるための態度」なんですね。

架空の事例で「心理的支援」と「福祉的支援」を考える

今考えた架空の事例ですが、こういった事例はどうでしょうか。

17歳の男子高校生A。両親が不仲で、毎日面前で激しくお互いを罵倒するのがストレス。高校を辞めて一人で働きたい。両親は義務教育は終わったのだから、出ていきたいなら好きにしろと言っている。住み込みで働ける会社を探したいが、高校の就職課は退学前提の支援はしてくれない。どうしたら探せるか。

あなたはどんなアプローチをイメージしたでしょうか‥‥

もしあなたがここで、「Aの意思を尊重して、住み込みで働ける会社を探す」のであれば、【福祉的には】「不適切」です。

この相談の場合、「児童の面前で両親が罵倒しあっている」のですから、「心理的虐待」と捉えて、「児童相談所に通告するための情報を得る」のが「最善手」です。

つまり、「Aの適性に合致した就職先を探す」のではなく、「児童相談所が介入しうる情報を入手する(アセスメントを行う)」ことが、福祉の支援者に求められるアプローチです。もっと言えば、それは「福祉の支援者が職務上必ず行うべきこと」です。

この「相談者の気持ち」を尊重はすれど、最優先はしない「態度」(ここでは「福祉的態度」とします)は、心理畑ですくすくと育った支援者には、理解が難しい部分になってくることも珍しくありません。(福祉も建前では「傾聴」を基本としますから、更に実務は面倒なことになります。)

児童虐待の場合、「児童相談所が最善手」と考えて行動することが、児童福祉の根底に流れる考え方であり、「その児童個人のリソースを活用して、『一人でも生きていけるように支援する』などは、とんでもない、あり得ない考え方」として否定されます。

そして、この「福祉的態度」をストレスなく実行するためには、「公的支援こそ最善手である」という「信念」が必要です。

「児童相談所に相談しても、あんまり動いてくれないし、役に立たないよな…」なんて気持ち(そしてその気持ちは往々にして「クライエントへの『寄り添い』」になります)があれば、当然それは「支援者の態度」として現れてしまい、福祉的支援に必要な情報収集に迷いが生じてしまい、アセスメントがおろそかになってしまいますよね。

ちなみに、「家栽の人」という漫画でも、両親が離婚に際して児童を引き取りたがらない、というネグレクトのような事案がありましたが、この事案に置いて、桑田判事が行った「離婚する夫婦の子どもが15歳以上の場合には、子どもが親を選ぶことができる(ので、桑田判事は『叔父叔母夫婦の養子になるという選択を暗に示した)」という「自律支援」は、現代児童福祉では、あまり名判事とは言えない「解決」になるのではないでしょうか。

まとめ:心理的支援と福祉的支援の違いを使い分けられるか。

このように、心理的には当然であり、賞賛される支援が、福祉ではあり得ない支援になる可能性もあります。

自らの学んだ領域が対人援助の全てではありません。また、福祉と心理という観点で捉えましたが、例えば「教育」という観点や「ビジネス」という観点で見ればまた変わるのかもしれません。

お金や通勤距離で職場を選ぶことも当然大事ですが、自分自身がストレスを感じず、成長を感じられる領域で能力を発揮できるかどうかという観点も非常に大事だなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?