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【小説】くちなしが咲くころ (712字)

散歩道でくちなしが咲いた。輝くような白い花びらが、朝のそよ風に揺れている。あたり一面に良い香りが漂っていた。くちなしは、彼の一番好きな花だった。理由は分からない。くちなしを見ると、懐かしい気持ちになる。同時に胸の中に淡い憧れが広がった。

くちなしの良い匂いを胸いっぱい吸い込んで、また歩き始めた。降り続いていた雨はやみ、青い空は夏の光で溢れていた。正面の空に一つだけ入道雲が浮かんでいる。梅雨明けは近いと感じた。

日曜日、彼は叔母と墓の入り口で待ち合わせた。母の墓参りをするためだ。彼の母は、彼が小さい時に亡くなった。母の記憶はほとんどない。ただ耳の底に残る優しい声と、良い匂いを覚えていた。

たくさんの花を抱えた叔母が、タクシーを降りた。お互いに挨拶をした後、母の墓に向かって歩き出す。あたりでは蝉が鳴きだし、墓に着くころには蝉しぐれに変わった。

叔母が花屋の包装紙を取った後、彼は良い匂いに気付いた。百合の匂いかと思ったのが、くちなしの匂いだった。不思議な顔をしている彼を見て、叔母が言った。

「姉さんがくちなしが好きだったことを思い出して、花屋さんで買ってきたの。くちなしの花を、実家の庭に父が植えていたわ」

「そうだったんですか。なぜか僕は昔からくちなしが好きで」

彼が言うと、叔母は遠くを見るような目つきになった。

「あなたがまだ小さい頃、姉さんは、実家であなたにくちなしの花を見せていたことがあった。きれいで、いい匂いがするでしょう、と言って」

彼の胸の中で、何かが溶けた。顔もろくに覚えていない母の声が、聞こえるような気がする。眼尻のあたりに温かいものを感じたので、慌てて上を向き、

「くちなしは、母さんの花だったんだ」

そう呟いた。

散歩道で見つけたくちなしです

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