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無限に関する対立を救いたい!

「この世界は狭すぎる」   
        ゼノアート、夕焼けのデスティニーアイランドの海岸にて

ゲーム「キングダムハーツ」より


はじめに

無限には対立が起こりがちです。ネット上では多くの議論が見つかります。口汚い罵り合いに発展することも少なくないです。一般人だけでなく哲学者・数学者・物理学者を交えた論争にも発展します。

アキレスと亀のパラドクスは有名です。よく、無限級数を用いた時間の有限性によりパラドクスの"解決"が説明されますが、これには納得しない人も多いです。「時間が有限だろうがなんだろうが、『無限が終わる』ということ自体が矛盾である。無限に繰り返されることが終わるなら、その繰り返しの最後にアキレスは何をしたのか?」という類の疑問を呈します。有名なのは「自然数数え上げ」です: アキレスのスタート地点とアキレスが亀に追いつく場所Xの中間点で「1」を叫ぶ、そことXの中間点で「2」を叫ぶ、そことXの中間点で「3」を叫ぶ...これを繰り返してアキレスが亀に追いついたとき、アキレスが最後に叫んだ自然数は何か? 無限に疑問を持つ人は、無限級数ではこの疑問は解消されないとします。そしてε-δ論法への嫌悪感を表明するに至り、対立は最高潮に達します。

本記事では、無限に関するこのような対立を、0.999...と1の大小関係を通じて解消することを目指します。まず超実数による0.999...<1の実現に関し述べます。そのあと、もっと一般に無限に関わる哲学・思想的な議論をします。ちなみに長いです。

以下、無限に関し、「アキレスと亀のパラドクス」は未だ解消されていないという態度のような、無限の「おかしさ」を表明する派閥を「無限否定派」略して「否定派」と呼びます。その逆の態度を取る派閥を「無限整合派」略して「整合派」と呼ぶことにします(「否定派」と言っても、すべての無限を否定するとは限らないことを断っておきます)。

超実数による対立の解決

0.999...=1に関する対立

このような無限に関する対立のひとつに「0.999...は1なのか、1より小さいのか」というものがあります。整合派は0.999...=1と主張します。一方否定派は、どこまでいっても9が続き永遠に1にはならないのだから「0.999...<1である」と主張します。

実数の範囲では、0.999...=1としないと、実数が満たすべき性質と0.999...という表記が表すことが対立します(0.999...<1だとその間に必ず実数が存在するが、0.999...の9を十分多く続ければその実数を超えるので矛盾)。ただし、それを証明しても、必ずしも否定派が納得するとは限りません。それは直観に合わないし無限のもつべき性質を持っていないと主張することがあります。しかしいくら否定派がそう言おうと、実数の定義がすでに0.999...=1と解釈せざるを得ない性質をもつので意味がないです。

ところが、「0.999...<1」という直観を満たす数体系は存在します。 それが超実数です。

無限を無限のまま扱う

超実数というと難しそうに聞こえます。実際、そこに現れる超フィルターの概念はとっつきにくいです。しかしながらその根本的なアイディアは単純です。そのアイディアとは「数列そのものを数として扱う」というものです。

次の数列

$$
\langle 0.9, 0.99, 0.999, ...\rangle
$$

の"行き着く先"は、0.999...の値とみなせます。否定派はこの数列の果て="いちばん右"が、1つの具体的な値に行き着く事を忌諱します$${{}^\spadesuit}$$。

ならば、この数列自体が0.999...そのものだとみなせばよいです。

しかしそうしてしまうと0.999...と1のどちらが小さいとか同じとかいう比較ができなくなります。なぜなら1は数で0.999...は数列だからです。全く異なるオブジェクトです。1mと1kgを比較せよ、と言っているようなものです。

ところがこれらを比較することが可能な体系を以下のようにして作れます。(概要のみ記します。詳しくは例えば下のサイトをご参照ください)

  • まず実数も数列に直します。実数$${r}$$に対し、すべての要素が$${r}$$であるような数列を対応付けます:$${r\leftrightarrow \langle r,r,r,...\rangle}$$

  • 2つの数列$${\langle r_n\rangle=\langle r_1,r_2,\ldots\rangle,\langle s_n\rangle=\langle s_1,s_2,\ldots\rangle}$$が等しいか違うかという基準は、要素が同じインデックスの集合$${\{n\in{\mathbb N}|r_n=s_n\}}$$が"大きい"かどうかで決めます。つまりはたくさん同じ要素があれば同じとみなす、ということです。これが大きいか否かを決める基準が超フィルターです。超フィルターは自然数の冪集合の部分集合であり、その元は同値関係が満たす条件を充足します。$${\{n\in{\mathbb N}|r_n=s_n\}}$$が超フィルターの元なら、この集合は大きく、$${\langle r_n\rangle}$$と$${\langle s_n\rangle}$$は等しいです。そうでないなら$${\langle r_n\rangle\neq \langle s_n\rangle}$$です

  • 不等号$${\langle r_n\rangle>\langle s_n\rangle}$$も同様に判断します。すなわち$${\{n\in{\mathbb N}|r_n>s_n\}}$$が超フィルターの元なら$${\langle r_n\rangle>\langle s_n\rangle}$$だし、そうでないなら$${\langle r_n\rangle\le\langle s_n\rangle}$$です。

  • さらに超フィルターにより定義される等式により数列を同値類にわけ、それぞれの代表元を取り出すことにより、$${\mathbb R}$$の拡大体$${{}^*{\mathbb R}}$$を得ます。

超フィルターは「「大きい「自然数の部分集合」」の集合」です。この数体系では、$${0.999...=\langle r_n\rangle=\langle 0.9, 0.99, 0.999, ...\rangle}$$は$${1=\langle s_n\rangle=\langle 1,1,1,\ldots\rangle}$$より小さいです。なぜなら、0.999...の数列の要素の方が、1の数列のどの要素より小さく、$${\{n\in{\mathbb N} | r_n < s_n\}}$$の集合は自然数の集合$${\mathbb N}$$に等しいです。そしてこれは超フィルターの元に含まれます。また、任意の1より小さい実数$${t}$$に対し$${t\leftrightarrow\langle t_n\rangle=\langle t,t,t,\ldots\rangle}$$と0.999...を比較すると、$${\{n\in{\mathbb N}|r_n>t_n\}}$$はcofinite(=$${\mathbb N}$$に対するその補集合が有限であること。"殆ど自然数の集合といっしょ")であり、これも超フィルターの元です。すなわち任意の実数$${t}$$に対し$${t<0.999...}$$です。

これで0.999...<1だが、どんな1より小さい実数よりも0.999...は大きく、0.999...と1の間には実数は存在しない、という数体系が実現できました。

数列は数列のまま虚心坦懐に捉えそれに順序をつける、という数体系は、否定派にも受け入れられやすい気がします。

「否定派には実数という世界は狭すぎた」と言えるかもしれません。

0.999...の不定性

ただし、0.999...という表記には不定性があります。

$$
0.999...=\langle 0.9,0.99,0.999,\ldots\rangle\\
0.999...=\langle 0.99,0.999,0.9999,\ldots\rangle\\
0.999...=\langle 0.999,0.9999,0.99999,\ldots\rangle\\
\vdots\\
0.999...=\langle 0.999...,0.999...,0.999...,\ldots\rangle
$$

このどれもが0.999...の資格をもつと思います。そして超フィルターによる判定に基づけば、下にいくほど大きいです。特に一番下の0.999...はどの要素も同じなので実数であり、実数では0.999…=1なので、1と同定すべきです。

このような不定性は、表記に不定性がある以上避けられないことであり、否定派にとってこれが問題になることはないと思います。さらにいえば、このような側面は無限のとらえどころのなさを反映しているとも考えられるので、むしろ否定派にとってはそうあるべきことなのかもしれません。

超実数の小数展開

超実数は小数展開ができます。0から1の間の任意の超実数$${a}$$は、$${{}^*{\mathbb N}}$$を超自然数として

$$
a=\sum_{n\in{}^*{\mathbb N}} d_n/10^n \ \ \ (d_n\in {0,1,..,9})
$$

と書けます。超自然数とは自然数の数列に対応する超実数の元です。つまり$${\langle a_1,a_2,\ldots\rangle, \ \ a_n\in {\mathbb N}}$$です。もちろん通常の自然数も含みます。さらに$${\langle 1,2,3,\ldots\rangle}$$のような無限大の数も含みます。
ここで

$$
0.d_1d_2\ldots ; \ldots d_{H-1}d_{H}d_{H+1}\ldots
$$

という表記を導入します。セミコロン;の左側は通常の実数の小数展開、右側は無限小部の小数展開部分です。$${H}$$は$${{}^*{\mathbb N}-{\mathbb N}}$$の元であり、無限大の数です。無限小部は、$${1/10^n, n\in {}^*{\mathbb N}-{\mathbb N}}$$に対応する桁の部分です。

ただし注意しなければならないことがあって、$${0.d_1d_2\ldots ; \ldots d_{H-1}d_{H}d_{H+1}\ldots}$$と表記された"数"のすべてが$${{}^* {\mathbb R}}$$の元になるわけではないです。例えば$${0.000...;...999...}$$は$${{}^*{\mathbb R}}$$の元ではないです。この"数"は、無限小+無限小が無限小になるという$${{}^*{\mathbb R}}$$が満たすべきルールに反します(Ref.[1])。

この小数展開を用いて示したかったのは、超実数の小数展開では0.999...には最後の桁が存在する、ということです。たとえば$${0.999...=1-1/10^H \ (H\in {}^*{\mathbb N}-{\mathbb N})}$$とすれば$${0.999...=0.999...;...9}$$と小数点表記で書くことができます。ただし最後の9は$${H}$$桁目とします。

時に、0.999...は無限に9が続いた後止まるのだ、という主張をされる方々がいます。上記のように考えれば、これをある意味正当化できるように思います。

写像stと微分の無限小解析

$${\alpha\in{}^*{\mathbb R}}$$には、それに最も近い実数の元が必ず一意に存在します。その実数を$${a}$$とすれば、$${{\rm st}: {}^*{\mathbb R}\to {\mathbb R}, \ \alpha\mapsto a}$$という写像を定義できます。難しいことではなく、例えば無限小$${\epsilon=\langle 0.1,0.01,0.001,\ldots\rangle}$$はどんな正の実数より小さく、しかし0よりは大きいです。これは0に一番近いので$${{\rm st}(\epsilon)=0}$$です。また$${{\rm st}(0.999...)=1}$$です。

この写像は、以下に見るように、微分を超実数を用いて定式化する際に有用です。

ライプニッツの提案した無限小解析における微分とは以下のようなものです(以下の説明、もしかしたらちょっと違うかもしれませんが、アイディアのスケッチということでご容赦ください)。$${dx}$$は超実数ではない"無限小"であるとします。そして微分を

$$
f'(x)=\frac{f(x+dx)-f(x)}{dx}
$$

としました。たとえば$${f(x)=x^2}$$なら

$$
f'(x)=\frac{(x+dx)^2-x^2}{dx}=2x+dx
$$

最後に$${dx}$$をゼロとみなして

$$
f'(x)=2x
$$

を得ます。しかし、この計算では$${dx\neq 0}$$と$${dx=0}$$が混在しています。$${dx=0}$$ならそれを分母に置くことはできません。$${dx}$$は「とても小さい」というなら、最後に$${dx}$$をゼロにせず、そのまま$${dx}$$を残しておくべきではないでしょうか。そもそも微分は傾きを表しますが、真に1点では傾きは定義できないはずなので、$${dx=0}$$としてはいけないのではないでしょうか。

このような疑問は、$${dx}$$を超実数における無限小だとすると解決します。上記の$${f'(x)}$$を$${dx}$$と$${{\rm st}}$$を使って

$$
f'(x)={\rm st}\left(\frac{(x+dx)^2-x^2}{dx}\right)={\rm st}(2x+dx)=2x
$$

とすれば、通常の微分と同じ答えを得ます。また$${\rm st}$$により、超実数と実数の間を行き来していることが明確であるため、$${dx=0}$$ and $${dx\neq 0}$$の問題が解決します。$${f'(x)}$$を$${\rm st}$$を用いずに定義すれば、「どこまでも小さい$${dx}$$」をそのまま残した$${f'(x)=2x+dx}$$という描像を明確に実現できます。これらの微分の定義には極限操作が入っていないので、ε-δ論法による議論も要りません。

超実数は可能無限的か実無限的か

今まで「否定派」と「整合派」という言葉を用いて、無限に対する態度の違う派閥を表現してきました。それら派閥の表現には時に、それぞれ「可能無限派」と「実無限派」という名前が与えられることがあります。

可能無限は、無限を「永遠につづく連鎖」ととらえ、それを確定したオブジェクトとして捉えることはできないとします。一方、実無限は無限を確定した総体としてとらえます。よって可能無限では0.999...は確定した数ではないし、実無限では1とします。おおざっぱにいうと、否定派は可能無限派であることが多く、肯定派は実無限派であることが多いです。

私はここまで、「否定派」には超実数という概念が適合しているという論を展開してきました。それが正しいなら、超実数は可能無限的であると言えるのではないでしょうか。

しかしながら、超実数はどちらかといえば実無限的です。なぜなら

  1. 無限小という具体的な確定した数を構成し、扱う

  2. 超実数の構成は選択公理に基づいており、可能無限派が求める「構成性」がない

からです。

1.に関しては特に説明を要しないと思います。超実数では無限を数として扱っています。これは確かに実無限的です。

2.に関して説明します。超実数では超フィルターを構成する際に選択公理を用います。選択公理とは以下のような公理です:

空集合を要素に持たない任意の集合族に対して、各要素(それ自体が集合である)から一つずつその要素を選び、新しい集合を作ることができる。

Wikipedia「選択公理」より


これはすなわち、たくさんある集合、ときには無限個ある集合から、要素をひとつずつ抜き出して新たな集合を作れる、という公理です。何のことはない公理に思えるかもしれませんが、これが可能だとすると、例えば「無限の囚人と帽子パズル」というとても奇妙な"パラドックス"が生まれます。以下のサイトから、この問題を引用させて頂きます:

【問題】
無限人の囚人に、ランダムに赤か青の帽子をかぶせます。
(無限はここでは可算無限とします。すなわち各囚人には0,1,2,3,…、と自然数の囚人番号が割り当てられているものとします。)
囚人たちは自然数の番号順に一列に並べられています。
0,1,2,3,…
囚人たちは全員、「自然数の大きくなる」向きに立っています。
たとえば先頭(番号0)の囚人は他の囚人たち全員の帽子が見えています。
番号1の囚人は、番号0と自分の帽子の色は見えないけれども、番号2以降の帽子の色が見えています。

囚人たちは、一斉に自分の番号を答えて、正解なら釈放され、不正解なら殺されます。
一斉に答えるので、他の囚人たちの答えを知ることはできません。

囚人たちには事前に作戦を相談する時間が許されています。

そこで問題。
「ほとんどすべての」囚人たちが帽子の色を当てて生き残るにはどのような作戦を立てればいいでしょうか?
ここで「ほとんどすべての」囚人たちとは、有限人を除いた全員という意味です。

ただし、選択公理の使用は囚人たちに許されているものとします。

「囚人と帽子クイズ(無限バージョン):論理パズルで楽しく脳トレ」より

一見、そんな作戦はないように思えます。ランダムに帽子をかぶせるので、他の人の帽子と自分の帽子にはなんの関係もなく、他の人の帽子の情報は自分の帽子を推測するのに何の役にも立たないはずです。つまり自分の帽子に関しては当てずっぽうにならざるを得ないはずです。ほとんどすべての囚人が助かるなどあろうはずもないです。

ところが驚くべきことに、選択公理を仮定するとこのような作戦が存在するのです。ここでは選択公理の不思議さがわかれば十分で、それにはこのような作戦が存在するというだけで十分だと思うので解答は示しません。解答は上記サイトの動画をご覧ください。しかし、おそらく答えを聞いても、なんだかキツネにつままれたような感じがすると思います。そしてこの不思議な感覚は、選択公理を仮定したことに由来します。

ということで、選択公理は、人によっては非常に受け入れがたい公理であり、特に否定派はこれを忌諱することが多いです。

このように、否定派には認めがたい実無限(的な概念)をベースにしている超実数なる数体系は、結局彼らに受け入れられないのでは?という気もするかもしれません。

しかしながら、私はそんなことないと思うのです。

否定派は、無限という概念が、不思議で奇異で人間には決して扱えない対象だということを忘れるな!と主張しているのだと、私は(勝手に)理解しています。ε-δ論法は、操作の連続のような無限性を感じさせないため、否定派にとってはそれが無限を無視しているように感じられるのだと思います(ただしだからこそ無限というわけわからん対象を扱うには都合がよいのでしょうけど)。

一方、超実数は数列をそのまま数の対象に昇格した形式であり、無限の連鎖がそのまま取り込まれています。たしかにそのせいで、選択公理のような不可思議な公理をベースにしてはいます。しかし重要なのは、そんな変な数であるということを意識しやすい点です。それは「無限を取り扱うことのおかしさ」を表しており、否定派にとって「奇異なる無限」をちゃんと感じられるのではないかと思います。ごまかしのない数体系です。そして、奇異な超実数という数と実数の関係は、$${\rm st}$$という写像で明確に行き来できるので、自分がいまどちらの数体系を扱っているかを明確に意識できます。

このように、奇異な対象である無限を、その奇異さを残したまま扱えるので、否定派にも超実数を受け入れられるのではないかと思います。


[余談] 超実数の可能・実無限性に関する識者の意見

以下はちょっとした余談です。

数学の文献をあたり、超実数に関し、それが可能無限的か実無限的かに関する言及がないか調べました。結果、そのような言及をしている文献は少ないことがわかりました。そもそも数学では「可能無限」「実無限」という言葉はあまり使われません。これらの概念は、哲学の方々が主に使われているようです。

ただ、全くないというわけではありませんでした。中村徹著「超実数と物理」の「まえがき」には、以下の文章があります:

…。彼(注: ライプニッツのこと)が用いた意味とは異なるが数体系の中に, ある意味での(その意味は本書の第 l章で具体化されるが)“実無限”を導入し,新しい数体系を提案した人がいる.その人こそA.Robinsonで, 彼の理論は現在では超準解析( nonstandard analysis)とよばれている.

中村徹著「超実数と物理」の「まえがき」より

中村氏の意見としては、超実数は「ある意味での"実無限"」とのことです。非常によくわかります。

また、齋藤正彦氏の教科書「超積と超準解析―ノンスタンダード・アナリシス」には"討論:超準解析とは何か"という付録があります。これは倉田令二朗・広瀬健・斎藤正彦3氏による超準解析(=超実数に基づく解析学)に関する討論です。その中に以下のような文章があります::

倉田) 無限という課題について言えば, 超準解析はやはり第三の道を与えている. 超準解析の無限大の数というやつは, ガウスが《無限は生成のうちにしかない》と言ったあの生成する無限とも,またカントルの実無限ともまったく性質が違う.

齋藤正彦著「超積と超準解析―ノンスタンダード・アナリシス」付録IIIより

倉田氏の意見では「可能無限でも実無限でもどちらでもない。新しい無限だ」ということかと思います。

これらの本以外で、明確に可能・実無限性に関する記述のある文献は見つかりませんでした。


教育現場における超実数

閑話休題。

ここまで見てきたように、超実数は無限に関する対立を解消するのに良い概念に思えます。しかもこれは特別なものではなく、無限に続く数列をそのまま数と見なし、それらを実数も含め比較可能にした、実数の拡大体です。また超フィルターという概念を表に出さなければ、数列の大小比較もある程度直感的に行えます。

このようなことから、教育現場における超実数の取り扱いに関し検討する論文もいくつか存在します。

Ref.[2]はProf. R. Elyという数学教育系の研究者の論文ですが、その中で、実際に生徒に無限小に関するインタビューを実施しています。その結果、学生は超実数の無限小ととても近いコンセプトをもつことがわかったとしています。そしてそれを無限小に関わる研究の歴史と共に検討しています。

Ref.[3-5]はイスラエルの数学者Prof. M.Katzの論文です(彼はコロンビア大学にてTroels Jørgensen と Mikhael Gromovの指導の下学位を取得しています)。微分幾何学、トポロジーの研究者ですが、数学教育の論文も多数書いています。Ref.[3-5]において、教育における学生の無限小に関する疑問の解消・それに関する超実数の有用性を説いています。Ref.[3]は0.999…に関する「超実数のススメ」です。Ref.[4]には実にたくさんの0.999…をめぐるQ&Aが書かれています。Ref.[5]は極限に関する様々な問題点を、数人の架空の人物による議論形式で展開しています。Katzさんの教育系の論文は読み物としてもとても楽しいです。

日本の文献では、先述の「超積と超準解析―ノンスタンダード・アナリシス」の討論における以下の発言があります:

齋藤) そうだろう.現実に教育の面に影響を与え得るものでもある .実際に無限小で教育するのは,まだだれもやってないから,できるかどうか分らないが,ε-δ式 でやるにしても,別の合理化が可能だというだけで気分が違うと思う. たとえば,高校式の極限の定義は厳密でないから駄目だという言いかたはすべきでない. 私は前からしていないが,今後ますますしないとい う自信がついた.無限小による教育も一度してみたいのだが ....

齋藤正彦著「超積と超準解析―ノンスタンダード・アナリシス」付録IIIより


このように、超実数は教育に有用であるという考えをもつ人は少なくありません。

まあしかし、教育現場で超実数に言及するなら、実数の定義やε-δ論法を教えた後でしょう。さすがに超実数のコンセプトのみ知っていて、デデキント切断やCauchy列、ε-δ論法等を知らないというのはまずい気がします。しかしその後に、これら大学で教える通常の解析学がすべてではない、ということを教えるのは有用かと思います。

この章を終えるにあたり、「超積と超準解析―ノンスタンダード・アナリシス」の討論から以下を引用しておきます:

倉田) かつて私は「確率論のもつ異様さについて」というのを書いたが,確率論には何かしら異様さがつきまとう.この問題提起は, 小学校の先生から確率の授業に関連して受けたものだ.さっきの論理の話も子供の提起する部分が多い.数学は何ごとも単純化してはっきり書いてしまうので,みんなおかしいと感じてもそのままになっ てしまう.だれもが感じながらはっきりしないことを顕在化すること,それがつねに教育の課題でもある.

齋藤正彦著「超積と超準解析―ノンスタンダード・アナリシス」付録IIIより

数学者でも、子供(や一般人)のもつ、数学から受ける「直観に反する感覚」をくだらないと切り捨てるわけではないようです。むしろそれをいかに顕在化し、そしてそれを説明し納得させるか、それは常に教育の課題として存在していることを忘れてはいけないと言っているように思います。


無限に対する哲学的・思想的なこと

ここからは、超実数の話題から離れて、無限に関する対立をどのように解決するかに関して考察します。

作業・行為の連続 vs 写像的概念

数学に慣れ親しんでいる人には、否定派の「無限が終わらないことがおかしい」という主張が理解できない人もいるのではないかと思います。

数学の無限には作業性・行為性はありません。例えば写像$${f}$$

$$
f: {\mathbb N}\rightarrow {\mathbb Q},\ \ \ n\in {\mathbb N}\mapsto 1/n\in {\mathbb Q}
$$

を、$${f(1)}$$が$${1}$$で、$${f(2)}$$が$${1/2}$$で、...という作業・行為の連続とは数学では捉えません。映画でフィルムをスクリーンに映すように、いっぺんに定義域の集合が値域へと映されている感じだと思います。だから、終わるも何もないです。

ε-δ論法も似たようなものです。度々登場している斎藤正彦氏の教科書の討論で、ε-δ論法を「後出しジャンケン」と表現しています。これはそのとおりで、例えば$${\lim_{n\to +\infty} f_n=a}$$なら、「お前、まずはどんな正の実数$${\epsilon}$$でもいいから言ってみろ。その後で、$${\epsilon}$$がどんなに小さくとも、$${|f_n-a|}$$が$${\epsilon}$$よりも小さくなる$${n}$$の値を俺は言えるぜ!」というのがε-δ(というかε-n)論法です。これは確かに「後出しジャンケン」のように感じられます。そしてポイントは、この後出しジャンケンは同時にいっぺんにできることです。任意の$${\epsilon}$$に対して、条件を満たす$${n(\epsilon)}$$を指定できます。具体的な$${\epsilon}$$の値を言ってもらう必要もなくいっぺんに$${n}$$を指定できるのです。これも、数学の行為性のなさ、$${n(\epsilon)}$$という写像の「いっぺんに写す性質」に起因します。

「無限は終わらない」「極限は無限の連鎖の中から飛び出している」という言葉に代表される、無限に対する違和感は、「終える」とか「最後」という言葉にすべて集約されているように思います。無限には「終える」とか「最後」というのはないです。

前に選択公理について言及しましたが、作業性に関連した選択公理に関する誤解があります。選択公理を受け入れない人は一定数いますが、その理由に「選択公理は無限の集合から要素を1つづつ抜き出すという、できもしない無限の行為を仮定していること」(これを*とする)を挙げる人がいます。この意見は的を射ていません。選択公理の要点は「無限の作業を一度に終えられること」ではありません。「要素を選択する基準(選択関数)を具体的に構築できなくても、それを選択できる」ことが要点です。例えば、1組の靴はその2つの形が違うので、具体的にどちらを選択するかを「右足用」や「左足用」と言って指定することができます。ところが靴下はそうはいきません。右も左もないので、指定のしようがありません。人間なら「どっちでもいいから1足くれ」で済みますが、数学では具体的な指定の不可能さ(構成性のなさ)を認めるか否かが大問題です。それが選択公理を認めるか否かの本質です。これに関しては、例えば以下のpdfをご覧ください:

https://www.math.is.tohoku.ac.jp/~obata/student/subject/file/2018-11_AC.pdf

ということで、*の理由で選択公理を否定する人は、選択公理ではなく、数学の無限に関する行為性のなさを否定するのが正しいです。

物理学の立場

前章の議論から、もしかしたら否定派は、「結局、数学とは現実とは何の関わりもない"言葉遊び"なのだ」という結論を導くかもしれません。

「ある数学的方法が現実か?」という問いの答えは、頭の中で考えるだけではダメで、それが自然を記述しうるかに依拠していると思います。そして、実際数学はかなりうまく自然を記述します。古典力学や統計力学は言うに及ばず、量子力学などは、抽象的な数学抜きにはなかなか理解もできません。そして不思議なことに、理論に無限大(収束を見ない真の無限大)が現れる場合でも、理論として成立する場合があります。そのような理論の代表例が場の量子論です。この理論、至るところに無限大(及び正則化しないと定まらない積分や級数)が表れます。一見異常な理論であり、実際多数の物理学者が、その異常さに頭を悩ませてきました。ところが現在では、くりこみや解析接続などの方法を用いることで、場の量子論は様々な実験を驚くほどよく再現できることがわかっています。これは、数学的方法がかなり現実であり、かつ無限を本質的に含むようなことでさえ、うまく処理すると自然と整合的であると言っていいのではないかと思います。

ただし、今後もっとうまい現実の記述法が見つかり、発散のないような理論、それどころかもしかしたら離散自由度のみからなる理論で自然のすべてが記述できるかもしれません。その場合、現在の連続的な理論による記述は、それら理論の近似であったことになり、否定派も数学・物理学に納得がいくようになるかもしれません。

「動く」とは?

改めて「終わる」「最後」という概念が無限にはないことに関し検討してみます。

このことは、たしかになかなか認めがたい気がします。空間的なことならある程度許容できる思うのです。例えば、ものの長さを測るため、物差しを対象にあてます。このとき、ものと物差しとの各部分の対応関係は、行為性もなく無限にいっぺんに定まります。これは数学的な写像と同じです。そして、例えばメモリの0cmと1cmの中心に傷をつけ、そこと1cmとの中心に傷をつけ、ということを繰り返すとします。それは無限に繰り返されますが、しかしその無限の傷が到達できないはずの場所に1cmのメモリも2cmのメモリもあります。そこには何の不思議もないと思います。

しかし無限を「時間的な行為の無限」に落とし込んだ途端、「終わる」や「最後」がないというのは奇異に感じます。有名な「自然数読み上げ」で言えば、アキレスが亀に追いついたとき、最後にどの自然数を読み上げたのか?と言われたとたんに、たしかに得も言われぬ不思議さを感じます。読み上げ終わらないのに、アキレスが亀に追いついたとき、読み上げは過去のことになっているのです。この不思議さに関する整合派の解答は「そのとおりであり、無限とはそういうもんだ」です。終わらないというのは、読み上げるという行為が終わらないという意味です。その行為は無限に続くけど有限の時間に押し込められています。だから追いつけないとは違うのです。

これには全く納得いかないかもしれません。その場合は、数学のように静的に解釈する方法があります。時間発展を考えず、静止画を思い浮かべます。


自然数読み上げの静的イメージ

上図をご覧ください。時間軸があって、その軸の各点の「奥行き方向」にアキレスの絵が書いてあり、そこに自然数が書かれています。この絵は亀に追いつく点(図の赤いところ)に向ってどんどん密になってゆき、追いつく点のすぐ左には無限に絵がはりついています。そんな感じが数学におけるアキレスと亀のイメージかと思います。同時存在的に、ただそこにあると考えます。誰がその無限枚の絵を書いた?とか、無限枚の絵を有限の幅には置けないとか、そういうことは一切考えず、ただそこにあるのです。無限枚の絵は有限幅に置けないのでは?ということに関して言えば、アキレスが自然数を読み上げるか否かに関わらず、常に有限の幅に無限の絵が付随しています。自然数を読み上げるという行為によって、特定の絵にスポットライトを当てただけのことです。

ただし、数字を読み上げるには、実際には有限の時間幅が必要です。アキレスの絵に、その絵に書かれている数字の読み上げぶんの時間的厚みをもたせるのは構わないです。しかしながら、その厚みのために無限枚を有限内に置くことはできないから読み上げはできないのだ、と考えるのは論点を過っています。あくまで読み上げができるということは仮定であって、それを仮定したらどんな"矛盾"が起きるのかが論点です。この話で示したいのは、それを仮定した場合、読み上げは現実的にはできないということとは別のおかしなことが起きるという点だと思います。よって、絵に厚みがあったとしても、亀に追いつく点に近づくにつれ十分に薄くなり、追いつく点とその前の点には無限枚の絵が存在することにしないといけません。

いや、それでもどうしても納得できないかもしれません。納得できないことを変だとは思いません。しかしひとつだけ誰もが受け入れないといけないことがあります。それは物体が動くという事実です。動くこと(または動くという感覚)は、誰も証明のできない、根本的な事象です。物理学でも決して物が動く事自体を証明することはできません。動くことを、時間という変数を用いて、解析学という道具で記述しているだけです。その道具は、万人に受け入れられるものではないのかもしれません。いつの日か、もしかしたら、皆を納得させられるような、無限などという"まやかし"を回避できるような記述法が生み出される日が来るかもしれません。しかし、その日までは、どうぞあまり事を荒立てないで頂けると嬉しいです。

最後に: 柔軟な態度が良いのでは

否定派・整合派共に、お互いに言わないほうがよい言葉があると思っています。それは「矛盾している」や「間違っている」という言葉です。

否定派は、極限や微分などの概念が受け入れがたいことを、「数学におけるそれらの概念の存在は矛盾だ」と表現することがあるのですが、数学的には矛盾はないです。また物理学的にも、それで理論的予言ができて実験と整合的なら矛盾はないです。矛盾しているのではなく、上記した「数学の無限に関する作業性・行為性のなさ」が、こと無限に関して現実感を失わせるのだと思います。

一方で、整合派も否定派に「あなたがたは間違っている」ということがあります。この発言もまた間違っています。否定派は、いろいろな論を展開するとは思いますが、結局は「数学の作業性・行為性のなさを認めない」と言いたいのです。認めるか認めないかなので、間違っているとかそういう問題ではありません。認めないならそれ以上は追求すべきことでもありません。

そして最後に言いたいのは「否定派、整合派、どちらかの立場に固執することなく、柔軟に場面によってこれらを使い分ければよいのでは」ということです。物事の様々な記述法、また直感的な感覚を乗り換え柔軟に使うことで、より豊かに物事を捉え語ることができるのではないかと思います。

おしまい。


$${\spadesuit}$$ 無限に果てはないのは実無限も同じです。極限は「無限の連鎖がどこまでも近づく点」であり、この点は無限の連鎖の中には存在しません。

【参考文献】

[1] Lightstone, A. H., "Infinitesimals," Am. Math. Mon. 79, 242–251 (1972).
[2] Ely, R., "Nonstandard student conceptions about infinitesimals,"  Journal for Research in Mathematics Education (2010).
[3] Katz, K. U. and Katz, M. G.,  "A strict non-standard inequality.999... < 1," arXiv:0811.0164 [math.HO] (2008).
[4] Katz, K. U. & Katz, M. G.,  "When is.999... less than 1?,"  arXiv:1007.3018 [math.HO] (2010).
[5] Kanovei, V., Katz, K. U., Katz, M. G. & Schaps, M., "Proofs and retributions, or: Why Sarah can’t take limits," Found. Sci. 20, 1–25 (2015).


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