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ホロ苦逃避行「部活の思い出」

小学生の頃の愛読書は空想ばかりしている「赤毛のアン」。学生時代は友達とバックパッカー旅行、社会人になってからは、次の休暇に何処へ旅立つかを夢想する日々。

この「此処ではない他の何処かへ」「常に非日常を夢見る」という行為は今に始まった事ではなく、随分と幼い頃からの性癖だったようだ。友達と一緒に自らやりたいと言って通っていたバレエ教室でも、幼稚園児の分際でレッスンをすっぽかした事があるのだ。それも、仮病を使って単にずる休みしたとかいうレベルでなく、ある日

「いつも通っていた道が急にわからなくなる」

という設定を作り上げ、友達と迷子劇を演じたのであった。

小中は「ミニバス時代」を経て、一貫してバスケ部へ。結構な強豪校で今どきはNGの「水飲み禁止」、朝練に外練、夏休みの長時間練習では暑さで目眩と吐き気に襲われ、鼻血が出るとしばしの休憩を与えられるのを救いに、なんとかついていっていた。

1個上の先輩は活動内外で恐ろしく(ワンクッションあるせいか、たまたまか、2個上の3年生は優しかった。)持って生まれた運動神経の悪さで努力は報われず、試合時の役割は「万年ベンチウォーマー」(主な活動:レギュラー選手をうちわで煽ぐ、水を渡す、その他応援に徹す)。自ら選択した部活動にも関わらず、こんな状況からまた逃げ出したくなったのだろうか。

とある年の、とある試合の日だけはいつもと訳が違っていた。詳しい経緯は失念したが、「負け組」とでも呼ばれてしまいそうな「非レギュラー陣」が試合参加をボイコットしたのだ。元々試合に出れたわけでもないので、試合進行自体には影響がないが、選手団としては異様な少なさであったろう。

幼稚園のバレエの時と同じで皆、当日、家からは普通に出た。その後どこかでコッソリと合流し、学校近くの海岸にでも行って油を売っていたのであろう。始めはワイワイ賑やかに笑いが溢れていたのに、日が暮れると共にだんだんと後ろめたさからか静かに。

律儀に試合が終わる頃に学校に戻ったとみえ、当然のごとく顧問にコッテリと絞られ、同じ仲間のレギュラー選手やキャプテンにはいらぬ負担をかけ、うなだれたボイコット組の姿が思い出される。家に帰ればどういう訳か、親にまで既に知られており、またしてもお説教で泣きっ面に蜂であった。

高校に上ると、元々「辛い運動は中学まで」と決めていただけあり、憧れの美術部に入った。しかし、ここでも得意だと思っていた自分の絵心には限界があることに気付き、挫折感を味わう。「寡黙な黒縁メガネ」といった、絵に描いたような真面目な先輩方が、これまた真っ黒な木炭鉛筆で石膏像を黙々とデッサンしており、室内は

シャー、シャー

といった鉛筆の音だけが寂しげに響いた。校庭からは窓越しに運動部の掛け声がかすかに聴こえ、そこだけ異次元の世界のようであった。

この時の私は、部活動のボイコットなんてものを大胆にもすっ飛ばし、高校そのものから逃げ出してしまった。

・・単に、親の転勤で転校しただけだけれど。転校先ではどうしたかと言えば、

懲りずにまたバスケ部に入ったのであった。

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