幸せ

普通の幸せもあるよ?

このアプローチの仕方にぼんやりと違和感を覚えるわけです。

森の中の小屋で画を描く日々を送っている画家。
画は売れない。
画の売れない画家はもはや画家ではなく、趣味として四六時中ひたすらに画を描いている変わり者。
その存在は世の中に知られていないので、変わり者という評価すらない、存在しているようで存在していない体毛の少なめな動物。

昔の恋人が、森の中の小屋を訪ねて来る。
そしてその体毛の少なめな動物に一言。
「普通の幸せもあるよ?」

街で、お金の為だけに仕事をして、休日には好きなことをして、素敵な人に出会って、結婚して、子供が産まれて立派に育って、ゆくゆくは孫の顔を眺める。
これのことを言っているでいいですよね?

まずは、それを普通のって言うなよと思います。

「普通の」って前につけている段階で、それを幸せだと思っていない。
普通の幸せなんてものはそもそも、無い。

誰一人として同じ人生はありません。
人間はこの世に産まれてから死ぬまで、みんな同じ通過点を通るような決めつけをしている。

さらにその普通の幸せとやらに退屈を覚えていて、それに対する苛立ちも抱えているにも関わらずに、それが最上のような言い方をして、森小屋にいる自由な動物を引きずり込もうとしている。

人間には、これさえしておけば一人残らず幸せになれますなんて営みはない。

だから、こういうのが幸せだよ?って誘わないで下さい。

そして次に、森小屋で売れない画を描きながら発狂寸前の生活を、なぜ幸せではないと思ったのですか?

そう思ったから、普通の幸せとやらに誘ったと受け取ります。
苦しそうに見えたなら、確かに苦しいかも知れません。
頭がおかしくなりそうなんだろうなと思ったなら、もう既に頭がおかしくなっているかも知れません。

それは幸せではないですか?

どんなに苦しくても、頭がおかしくなっていようがいまいが、自らの意思で選択した結果なら、それは「幸せ」です。

自らの意思で生きていますか?
怖いですか?死にたくないですか?
この先どうなっていようと、本当はどうでもいいと思っているでしょう?
安全な暮らしをすることはできます、でもそれには退屈してしまうでしょう。
しょうもない刺激を求めて、くだらない人間になってしまうでしょう。

幸せって天国にいるような気分だと本当に思いますか?

自分で確かめて下さい。
自分のやりたいようにやって、生きたいように生きて、ボロボロになった先にある「幸せ」はどんな気分なのか。

森小屋へ昔の恋人を訪ねた時に
「普通の幸せもあるよ?」
と話しかけるのは、余分な要素が付き過ぎています。
真っ直ぐに、何の疑いもなく話しかけて下さい。
「幸せなんだね。」と。

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