私とスリランカの話

私は割とスリランカには思い入れが強い。
1本の鉛筆の向こうにという国語の教科書に「ポディマハッタヤさん」という方が出ていたのだけど、ポディマハッタヤさんはボガラ鉱山で働いていて鉛筆の芯を採掘している方だった。ちなみに好物はカレー。

このポディマハッタヤさんの話に出会うはるか前、幼稚園の頃、毎朝バスを待っているとチャリに乗る外国の方が手を振ってくれていた。私は毎朝彼に手を振り返していて、名前も教え合う仲になっていた。
その方の名前は「イリアスさん」私はイリアスと上手く言えなくて「イーオスさん」と呼んでいた。(以後、イリアスさんはイーオスさんと呼ぶことにする)

イーオスさんは、スリランカ人で日本に出稼ぎに来ていた。一度お家に誘ってもらって母と弟と一緒にお家に行くと、何人かのスリランカ人とルームシェアしていた。
イーオスさんには4人の子供がいて、出稼ぎでエンジニアとしてSONYで働いていたので、多分凄く優秀だったのだと思う。私が小学校に上がる少し前、イーオスさんはスリランカに帰った。

イーオスさんはスリランカに帰ってからも頻繁にお手紙をくれて、娘さん(私より少し上)ともやり取りをさせてもらったし、母もイーオスさんに浴衣を送ったり、イーオスさんからは誕生日になるとドレス(しかも装飾が物凄い高そうなドレスだった)や、近くの鉱山で採れるルビーやサファイアの磨かれたもの(サイズは物凄く小さくて、でもすごくキラキラしていた)を送ってくれていた。手紙には毎回Dear 〇〇(私の名前)と書かれていたし、娘さんからの手紙にはMy sister〇〇(私の名前)と書かれていて嬉しかったのを覚えている。
妹が産まれた時には妹が産まれたことと写真を送ったし、妹にもドレスを送ってくれたりもしていた。

ただ、母が蒸発してしまい、私は母方の家に行ったので連絡が途絶えてしまった。
でも私はイーオスさんの事を今でも大切な思い出としてたまに取り出して元気かなぁと思いを馳せたり、スリランカで大きな地震があった時には募金をしたりして、スリランカの事を身近に感じていた。

そして今日、スリランカが崩壊したとツイートが流れてきた。私には政治のことなんてさっぱりわからないけど、イーオスさんやその家族が生きていて、今も幸せであって欲しいと思っている。
いつかイーオスさんに会いたいな。私の事なんて覚えてないかもしれないけど。

Twitterに書ききれないと思ったこの想いを、とりあえずノートに書きました。

ちなみに、私と私の従姉妹はポディマハッタヤさんの事を覚えていて、なんなら去年ポディマハッタヤさんはコロナで亡くなってしまっている所までお互いに調べてたけど、あんまりポディマハッタヤさんを知っている人がいないのが悲しい。

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