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【ネタバレ有】ドラえもん のび太の地球交響楽の感想と考察

《注》ネタバレがあります!! ネタバレが嫌な人はブラウザバックしてください!


今年のドラえもん映画も公開から1月経ちました.流石にここまで経てばネタバレを書いていってもいいだろうということでネタバレの有りの感想と考察です.ネタバレのない記事も公開しているのでそちらも気になるという方は良ければお読みください.

2回注意喚起したのでもう大丈夫ですよね.というわけで本編です.


とりあえず自分が映画館でドラえもんの映画を見るときのスタンスなのですが,めちゃくちゃ批判的な目線で見ます.これは自分がF先生原作の大長編が好きだからというのもありますし,わさドラの映画は自分にとって「それはやったらあかんやろ」と言いたくなる描写がたまに入ってきます.最近はそれも少なくはなってきましたが,用心するに越したことはないというスタンスで見ています.

とはいえ今回に関しては完全に杞憂で終わりました.ハッキリ言ってものすごく「楽しかった」ですね.映画のタイプとして「ひみつ道具博物館」と同じタイプ(映画の感想でおもしろいというより楽しいと言いたくなる作品)と予想していたのですが,それが見事に当たり,特に自分にとって地雷を踏んでくることもなかったなというところでした.




「音楽」というテーマについて

題材選びのすごさ

そもそもの題材,「音楽」をテーマに映画を作ったのがまずすごいと思います.去年の映画のおまけでコンサートの描写がされたときにテーマが音楽であることはすぐに察しがつくのですが,正直なところ「音楽を使って何をするんだ?」とおそらく今までのドラえもんを見てきた人なら思うはずです.少なくとも自分はそうなりました.しかも音楽だけならまだしも,「オーケストラっぽいコンサート」なのでこれがますますわからない.......

他のF作品の記憶を思い出しても音楽を「使って」何かが起こる,何かをするというのはあるけど,音楽「そのもの」をメインに据えた作品は自分の記憶にはありません.そういう意味で確かにF先生がいないからこそできた作品であると言えると思います.

そんなF作品にあまりなじみがない音楽を題材にしただけで映画の出来も良いからこそ,この点に感動しました.ただ昔の大長編にあったような大スペクタクルドラベンチャー的な要素は薄い系統の作品にはなっているとは感じました.


音に凝った作品

音楽が題材だからこそ音に拘っているのは当然だと思うのですが,自分的に「珍しいな」と思った描写をちょっと書いていこうと思います.

まずのび太の家の玄関に鈴がついていて,ドアを開けるときにチリンと音が鳴っていたり,虫や鳥の声,横断歩道のとおりゃんせの音,家の窓から聞こえるピアノの音,子どもをあやすときの子守歌,ラジオから流れる演歌で歌っている歌声.......こういった日常の音はあまり意識することがなくわざわざ描かれることも少ないものだと思います.

しかし,こういった音がのび太の「音楽がなかった」の文言で全て消えてしまいます.ここのインパクトをつけるために「こういう日常の音って聞こえてくるよね」という描写があったのかと思います.普段何気なく聞こえてくる音,音楽がなくなったときにどれだけ大事か痛感する.こういう何気ないところも意味のある描写だと気づきやすいものでした.


音楽(ファーレ)とは何なのか

残念ながら自分に音楽理論の知識はないのでそれに基づいた分析や考察というのはできないのですが,作品からのメッセージはこういうことなのかなという話をしていこうと思います.

まずチャペックがファーレについて解説してくれているところで「ファーレは小川のせせらぎのような,小鳥のさえずりのような…そう,地球で言う音楽です!」と言ってくれています.音楽といってイメージするのはやはり音楽の授業だったり歌だったり,楽器や声で構成されるような音のイメージが強いように感じます.実際音楽の意味を軽く検索してみると「音楽とは音による芸術である」というように書かれており,4分33秒のジョンケージのいう音楽はわれわれを取り巻く音であるとまでは敷衍されなさそうです.

われわれの周りにある全ての音を音楽としてしまうと「ノイズ」も音楽の一つとされてしまいそうなので,ファーレという概念はそこまではいかないでしょうが,地球で言う音楽よりはもう少し広い概念のような感覚を受けました.ここでヴェントーさんによる「ノイズ」の説明を思い出すと「ノイズは音ではない,宇宙生命だ」といったことを仰っていました.他にもジャイアンとスネ夫がワークナーさんの講堂に近づいたときに「嫌な音」だったりとノイズは「不快な音」として扱われていました.

ファーレはこのノイズの対義語的位置にある概念としてとらえてみると,「人にとって心地の良い音」がファーレなのでしょう.なので映画の冒頭から描写されていたように「音楽」もファーレに包含されるものですし,鳥のさえずりや虫の声など,人間が作った音ではないものもファーレになる.一番最初に白鳥の鳴く声を聴いて「きれいだ」と言っていたのも音楽というよりこういうのもファーレ,音楽の一つであるという提示だったのでしょう.

これは後で書く所でもあるのですが,子どもにとって「音楽」と聞いた時にのび太のように「音楽の授業」を連想するかもしれません.そういった固定観念を持ってしまってた人には音楽の概念を広げる,もっと自由なもので良いといったメッセージ性があったのかなと感じました.


ファーレの条件?

ところで音がファーレであるかは「音の出し方」によって決まるのでしょうか.何を言ってるんだというと,この疑問は「おなら」から始まります.音楽家ライセンスでビギナーとなった4人がモーツェルさんとバッチさんのいる島に水を流すために楽器を初めて演奏する場面で,ジャイアンはチューバを吹こうと頑張ります.しかし,なかなか吹くことができずに力み過ぎておならが出てしまうという場面.ここでジャイアンの後ろポケットについていたノイズの胞子が放り出されてしまうことになります.

また別場面.タキレンさんからムシーカ星に起きた出来事を聞いた後に目覚めたロボットたちと一緒にファーレを奏でるシーンにて,のび太がリコーダーを吹きつつおならでもファーレを奏でているシーンがありました.

同じおならを出しているのにファーレになっているものとファーレになっていないものがあるのは一見すると不思議に感じます.とはいえ快・不快の観点でいくとのび太のものがまわりのロボットたちに「綺麗な音色」として聞こえてるというように解釈し,ジャイアンの方はのび太たちに笑われていたことからも「音色」としては思われていないと解釈すれば,同じ音の出し方といえどファーレであるものとないものに分けられるのも頷けます.

するとジャイアンの歌やしずかちゃんのバイオリンが省かれた理由も見えてくるような気がします.この二人の演奏は「自分の演奏が良いものと思っているけど周りは良いとは思っていない」ものなので,おそらく実際に披露された場合ファーレではない演出がされてしまうような気がします.そうなるとのび太の成長物語から主題が散らばってしまうので,ジャイアンとしずかちゃんについては別の楽器をあてがわれたのではないでしょうか.




各キャラクターの立ち位置と意味付け

のび太の成長物語

わさドラになってからのドラえもん映画は「のび太主題」であることがほとんどのように思います.今回の映画も例に漏れずのび太主題の映画でした.

今回ののび太はどういう立場かというと「音楽の授業が嫌いな小学生」でした.音楽の授業でうまくリコーダーを吹くことが出来なくて馬鹿にされてしまう.そのことで音楽それ自体も別に必要ないとまで思ってしまう.そんなところから始まりました.だからこそあらかじめ日記で音楽そのものを消してしまった後にドラえもんから「音楽そのものがなくなったんだ!」と言われたとき,「別にいいじゃない」と他人事のようだったのでしょう.そのあとに街の様子を見て人々の鬱憤の溜まり具合からまずい事態であると認識していました.

そこからミッカと会ってみんなと合奏を通して縛られずに音色を奏でることの楽しさや,ファーレの殿堂で音を出すことの楽しさ,少しずつ楽器の特性を理解してうまく吹けるようになっていく….こうして音楽が嫌いだったところから少しずつ音楽に対する忌避感が消えていっていました.

自分が丁寧だなと思ったのはこの部分です.音楽の授業が嫌いといっても別に音楽自体は嫌いではないというより気に留めてはいない状態からこの物語が始まるのですが,そんな人に「音楽って楽しいよ」というのを理解してもらうその過程をずっと描いていると思うのです.

例えばミッカとの邂逅で自分は下手だから吹きたくないと言いつつも,吹けと言われていやいやながらも吹く,その後に4人で練習するときには自由に吹いててもとやかく言われることがないので楽しそうに吹き,そして所謂「音楽」ではなくただ自分の身体の動きに合わせて音を出すだけとここから少しずつ音楽に対する嫌悪感を取っ払っていきます.

4人で演奏するのが楽しかったからこそ,その後のみんなと吹きたいからリコーダーの演奏が上手くなりたいと言って一人で練習しようとするのでしょうし,しっかりとステップアップしていく様がわかりやすく描かれていて非常に好感が持てました.


ミッカとコロナ

今井監督曰くこの作品はコロナ禍でのリモート合奏をテレビで見て「みんなと合奏するのは楽しいよ」と伝える作品を作りたいとなったといいます.このことをふまえるとノイズとはCOVID-19と同一視することができ,これによってムシーカ人が離れ離れになってしまったのは緊急事態宣言下における様子と似てきます.するとミッカという子どもはそのあたりで生まれた子どもということになり,これは予想でしかないのですが,みんなと一緒にお歌を歌うなんてこともなく他のときの子どもよりは""孤独""な幼少時代を過ごしていたのかもしれません.

そんなミッカは雨の中一人で絵本を読みながら歩いている描写が序盤にありました.雨はタキレンさんの場面で悲愴感を出す演出だという話がありました.ミッカはこのときはチャペックと二人だけだったからみんなとファーレを奏でるなんてこともしたことがなく,絵本にあるようなみんなとの合奏にあこがれ地球でそういうことができたら良いなと思って来ていたのかもしれませんね.

他のムシーカ人も既に亡くなってしまい歌や音楽は好きだけどみんなと一緒に合奏をした経験のない子ども,だからこそのび太たちと合奏するのは夢見ていたことの実現で,最後にのび太たちと離れるときには寂しそうな顔を見せ,他のムシーカ人が生きていたという報にはまた新たなファーレをみんなで奏でることができると心ときめかせていたのだろうなと想像が膨らみます.

ところでムシーカ人の墓場でミッカは元気を装っていたように自分は見えました.ミッカ自身も察しはついていたのでしょうし,もう自分以外のムシーカ人はいないという事実を突きつけられるのはあの年齢の子どもとしてはあまりに酷だったと思います.それでも元気を装えたのはのび太たちと出会ってみんなとファーレを奏でるという経験ができたからなのかもしれません.


キャラクターへの感情移入

ミッカのことを考えるとコロナ禍を通してみんなと一緒に音楽をする経験がないような幼稚園から小学校低学年くらいの子どもはミッカに感情移入しやすいのではないでしょうか.今回の映画が前年や一昨年に比べて低年齢向けにも感じたのはおそらくそこなのかなと感じています.

また今井監督の話ですが,のび太たちに感情移入しながら一緒に音楽を演奏したかのような気分になれる作品にしたと仰っています.やはりメインの感情移入先はのび太なのは間違いないのですが,今回特に思ったのはドラえもんの保護者的視点が強いということでした.

ドラえもんとのび太との関係は原作では「友だち」が一番ピッタリ合っていると思いますが,大山ドラの後期では「保護者」的な立場で動くことが多くなっていたように思います.ではわさドラはどうかというと,初期の方はまた「友だち」の関係になっていたと自分は感じていますし,今もそうなんじゃないかと思っています.

しかし,今回の映画ではのび太の成長を見守る親御さん的な立場でいるのを感じました.これの最たるものがみんなが寝静まった時にのび太がお風呂でリコーダーの練習をしていた場面.ここでリコーダーの音が聞こえてきたときにそっと襖を開けてのび太の演奏を聞きながら寝ていましたが,「ちゃんと練習してるんだな」と我が子が頑張っている様を陰ながら見守る親のようなしぐさをしていたように思います.

また,ノイズによって壊れてしまったドラえもんをのび太たちのファーレで直すときにのび太が意地でも演奏に加わってドラえもんを直そうとしていたところでは,その練習の成果を聞いて涙するドラえもんがいました.ここはドラえもんを助けようとのび太が一生懸命に頑張って演奏しようとし,絶対に自分が助けたいというのび太の意思に3人が寄り添って綺麗なファーレを奏でた感動のシーンだと思います.ただそれだけではなく,ここが保護者鑑賞会の場面ともとれるように思います.

映画の最後でのび太のパパやママなど保護者たちがのび太たちの演奏を聞いていました.これは保護者の方々にみんなの練習の成果を発表する場なのだと思いますが,このドラえもんを助けるシーンは同じ構造になっているように感じました.

と考えると子どもと一緒に来ている親御さんが感情移入する先としてドラえもんが追加されるわけですが,小さな子どもから大人まであらゆる感情移入先を用意して最後にコンサートに臨めるようにしているとなります.監督のこういう映画にしたいという意気込みは達成できているように自分は感じました.




VRChatter的なお話

ちょっとお話は逸れます.自分はVRChatというVRSNSにいつもいるのですが,今回の映画でどうしても想起させられてしまったワールドが2つあるので紹介します.

これらのワールド(MOCHIPLY FACTORYはもう閉まっちゃっていますが…)がまさにファーレの殿堂でした.音をいっぱい鳴らしてファーレの殿堂を蘇らせる場面は音源をどんどん増やしていって雷を落とし,機械の電源を起動させるAmebientと同じですし,ある程度決まった音を出して少しずつ殿堂を起こすのはまさにMOCHIPOLY FACTORYでした.

のび太たちは楽しんで演奏してファーレの殿堂を蘇らせていましたが,VRChatterなら「これAmebientとMOCHIPOLY FACTORYやん」となったはずです.少なくとも自分はそうなりました.そうするとどうでしょう,のび太たちがやった音楽でものを動かしていく体験を既にやったことがあって楽しい思い出として残っているのです.映画の中で「これめっちゃ楽しいよね,わかる」とものすごく感情移入がしやすくなってその後の展開もスッと入って行けてしまいます.

そういう意味で自分は「VRChatterにおすすめ」と公開数日のときに言っていました.自分のそれを聞いて見に行ったよと言ってくれた2人の方もなんでそう言ったかが分かったと言ってくれたので,AmebientとMOCHIPOLY FACTORYが好きなVRChatterの方にはこの映画おすすめです.




ちょっとしたお話

パロディ多かったね

たぶんもっと多いんだろうなとは思いましたが,宇宙小戦争で出てきた人形やぬいぐるみ,一番最初にのび太の部屋の全景が移った時に右上あたりに去年の飛行船があったり,ドラえもんが壊れて大丈夫と触った時に「エッチ」と言ったときの表情と動きは完全に雲の王国のものでした.あともしかしたらというところですが,ファーレで虫を出して空を飛んでいたところはどうしてもドラえもんズのムシムシぴょんぴょん大作戦を思い出してしましましたね.


来年の映画のお話

毎年恒例の来年の映画のチラ見せですが,今回は子どもみたいな絵,魔法使いっぽいドラえもん,ミュンヒハウゼン城と思いたくなるお城というような要素でした.ここから「夢幻三剣士」や「ゆうれい城へひっこし」を予想としている方が多いように思いますが,自分もその一人です.

初見で思ったのはやはり「ゆうれい城へひっこし」で,正直一番テンションが上がっていたと言っても過言ではありません.というのも渡辺歩監督がゆうれい城へひっこしで作りたいと言ってたけど別のもので作らされて失敗したのが緑の巨人伝という話を聞いたこともあって,もしリベンジが叶うなら見てみたい気持ちが今もあります.とはいえ監督は違うという話も聞くのでどうなのかはわかりません.

ただ,落書きのような絵というと空気クレヨンとかは出てきそうという妄想やもしかしたら絵本の中ということでドラビアンナイト的な導入をしつつ夢幻三剣士的世界観で舞台はゆうれい城へひっこしかなと今は予想を立てています.

何にせよ来年も楽しみですね.




ここまで長い感想を読んでいただいてありがとうございました.もう今年の映画は公開終了するところも出てきているでしょうが,まだ見れそうなら見ておいて損はありません.自分の中ではわさドラの中で2番目に良かった(一番は空の理想郷)し,これが一番良いという人がいても納得します.ここは純粋に好みの話です.

というわけでpyocopelの地球交響楽の感想&考察でした.

— 了 ―

pyocopel

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