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0101「愛とは何か」

この日記は見直しなどせずになるべく思いついたまま書き殴って、生活や仕事の中で気になったことであるとか、いろいろなものを書き留めておくことを目的としている(ような気がする)。年齢を重ねて忘れっぽくなっているのでこうしてふんわり記録するのはとても良い。というわけで、人に読まれることは嬉しいし、PVもスキ数も気にするといえば気にするが、公開しても詮無いよなあと思っているところがあって、ゆえに語りかけているのは読者に向けてではない。この文章は、半ば一方的に受け手のことを意識しすぎずに放たれるTwitter的文章だ。そしてそれは私が普段読む上で最も嫌いなタイプの文章であり、最近の日本語の文章はこういうTwitterくさいしょうもない文章ばかり増えているので辛いものがある。

たまに帰る日本のツタヤで平積みにされがちな自己啓発くさいビジネス書くずれとか、結構読んでいるけれど、世も末だなと思う。そういう本はほとんど自慢とマウンティングで構成されていて、わりと140文字でまとめられちゃうんじゃなかろうか。人に売るような文章は、Twitter的に宙に放たれるべきではなくて、読者のことを無視してはいけないのではないか。
実際そういうのって、読んでてこっちが無視されている気がしてしまう。

そんなわけで、近所のジムに行きたくて、その会費を払いたいので年内は無料でやって、年明けから有料にしよっかなーと思っていたこの日記だが、上記のあたりで逡巡して、「ああ、これは売ったら申し訳ないな」と思ったので有料にする理由を見つけるまで無料で続けようと思う。

で、この文章はそんな宙に向けた文章なので、年頭のご挨拶のようなものは書かない。会社が始業したら、それは別に各国語でちゃんと書くに違いない。ニューヨークの会社は明日始業なのですぐだけど。

この日記にも連日書いていたが、年末はフロリダのディズニーワールドであったりユニバーサルスタジオであったりに行っていた。ニューヨークに移住してきてからは、距離的に同じ東海岸だし、家族旅行にはちょうど良い場所なので、数回目だ(すごい金がかかるが)。
今回は2年ぶりくらいだったのだが、11歳の長男の行動基準みたいなものがすごく興味深かった。家族で行く場合、嫁(酔いやすい)・次男(4歳)・長女(2歳)たちは、ジェットコースター的な激しい乗り物には乗らず、ショーものとか、マイルドな方に回って、私と長男で、揺れたり落ちたり振り回されたりするようなものに乗るフォーメーションが多い。

で、長男と私のペアで激しい系のものに乗ると、決まって長男は、嫁か4歳の次男に「面白かったからもう一回一緒に行こうよ」などと言って、いかにそれらのアトラクション(嫁や次男はまだ見ていない)が素晴らしかったかを話して営業するのだ。
いや、よく考えてみるとこれは長男だけではなくて私もだ。

ディズニーワールドのアニマルキングダムに昨年新設された映画「アバター」のスリルライドである「flight of passage」に、210分も並んで2人で乗ったのだが、これは本当に素晴らしいアトラクションだった。210分並んで乗り物乗るとか、普通に考えると意味わからないが、これは210分待つ価値があるかもしれん、と思ってしまった。
このアトラクションは、「スリル」を謳っていて、実際にバンシーという劇中のドラゴンっぽい生き物にまたがって「アバター」の世界を飛んだり落ちたりする。「ジョーバ」みたいな拷問器具っぽい機械木馬にまたがると、その木馬がいわゆるドライビングシミュレータ的に、眼前の没入型巨大スクリーン映像と連動して上下左右に動く(他にも仕掛けはある)。という仕立てなので、「スターツアーズ」みたく、スリリングな展開にしようと思えばいくらでもできるところ、そんなことにはなっていない。

動きはゆっくりで、いきなり落っこちたりではなく、ちゃんとイーズをかけて降下したり上昇するようになっていて、普通に飛行機に乗っていて体験する嫌な揺れとは違って、ひたすら気持ちよく空中を悠然と飛ぶ、という演出設計をしている。ノリとしてはむしろ、来年東京ディズニーランドにも来るらしい飛行シミュレータアトラクション「ソアリン」に近い(これもフロリダにある)。

よく考えたらそんな空中飛行の気持ちよさに特化した激しめの没入型乗り物って、今までに存在していなかった。運営側は、人をびびらせうる設備を手にすると、人をびびらせるコンテンツを入れようとしてしまう。しかし、この「flight of passage」をつくった人たちは、人をびびらすことを切り捨てて、コンテンツを逆側(しかし基本側)に振った。ので、テクノロジー的には既存技術の組み合わせでも、すごく新しい体験になっていた。クリエイティブ・ディレクションって本当に大事だ。

というのは、デジタルエンターテインメント技術屋としての目線だが、これは私も嫁に「いつか一緒に乗ろうよ」と言ったし、長男は「一緒に乗ろう一緒に乗ろう」といって盛り上がっていた。
それは普通のことでありつつ、じゃあそういうことを見も知らぬ人間に言うかどうかというとそんなことはなく、じゃあなんなのかというと、これこそが「愛」なのではなかろうかと思った。というか以前から「愛とはこういうことなのではなかろうか」と思っていた概念と同じだなと考えた。

愛というのは、素晴らしいものを目にして、体験したときにそれを共有したい、報告したいということなのではないか。他者に何かを見てほしい、体験してほしいというのは、その他者の人生に介入することではあるけれど、とても利他的な欲求なのではないか。「きっとあの人は喜んでくれるだろう」「きっとあの人は共感してくれるだろう」とかそういうことだ。

ということにすごく気づいたのは、一昨年(2017年)に、アメリカの皆既日食を見たときだ。当時私以外の家族は夏休みで日本にいた。皆既日食はとんでもなく美しいものだったのだが、初めて皆既日食を肉眼でみたときに思ったのは「スゲー」とかではなく、日本に残した嫁のことだった。「これは彼女に見せるべきものだ。しかしそのチャンスはもうしばらくないし、もう無いかも知れない」と思ったと同時に、むしろ悲しくなってしまったのだ。帰りの自動車で、実際ちょっと泣いてしまった。

それに付随して、「愛される人」というのは味わい深いリアクションを期待できる人であるとも言える。

単純な話で、愛を持っていない相手が何を見ようと体験しようとどうでも良くて、それがそんなに近しくない相手でも「あの人にはあれを見て欲しい」と思うようなことがあれば、それは量的にはいろいろありつつも何らかの愛なのではないか。「世の中を驚かせたい」みたいのも含めて。

で、自分がやっている仕事なんて、誰かに見てもらう、体験してもらう仕事なのだから、それはそれでお客さん(B to B的にもB to C的にも)への愛がなくては成立しない。実際、前述の「flight of passage」をつくった人たちは、相当に愛のあるアトラクションづくりをされているのだと思う。そうでなくてはあんなに素敵なものはできない。
愛というのは相手のリアクションを考えるということでもあり、それがとても幸せな結果を生むために最大限努力するというのが愛のあるものづくりというものなのだろう。

というわけで、2019年も、愛があるものづくりとそのお手伝いをしていければと思う。とか書き殴っていたらわりと年頭のご挨拶っぽくなってしまった。折角なので、本年もよろしくお願い致します。

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