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非詩人として、詩と徽宗皇帝について考える

詩人ではない私なんかが詩作について語るのは僭越なのだが、私という人と詩の関係というのは特殊で、詩というものについてなんちゃって言論を展開できる程度には、私は詩と触れてきた時間が長い。

私は詩人の両親の間に生まれた。詩人の両親の間に生まれた「非詩人」ということにでもなろうか。

すなわち、生まれた瞬間から生活的にも文化的にも詩の影響を受けることになったし、「非詩人」であっても、詩というものが存在しない世界はあんまり想像できないような世界観の中にいる(ような気がする)。

両親に対しては、他の方々と同様、愛憎入り混じったいろいろがあるわけだが、たまたまとはいえ、詩人夫婦の間に産んでもらったことについては幸運を感じるし、感謝したくもなる。やはり、言葉とか表現に対する感覚というのは、幼少期から鍛えられる環境だった気はする。

非詩人である上に評論家とかですらないので、勘違いしていたら父なり職業詩人の方々なり、ボコしてくれれば良いが、私的には、詩というのは、言葉を使った表現であると同時に、言葉の外にある造形で遊ぶものであるように思う。

たぶん、その他の表現ジャンルでいうと、華道とかがわりと似ている気がする。言葉を使って、構造物をつくると、その構造物全体から、良い匂いや嫌な臭いがしたり、おかしな気分にさせられたりする。

組み合わせや構造によって、言語化できない気分や概念を共有できたりする。

ここが詩というもののわかりにくいところで、「言語」を材料として使うくせに「言語化できない」ものを表現するという一見矛盾に見えて実際矛盾していることをやっているのが詩であるように思う。

しかし、詩というのは、言葉を使って彫刻をつくるようなもので、言葉というのは彫刻における石とか木みたいなものだ。で、言葉の彫刻から言語化できないものを感じたり考察?したりするわけだから、まあたぶんそういう形で成り立っている。

宋代の徽宗皇帝が集めた「花石綱」というものがある。これは、めちゃくちゃ悪名高いもので、なんなのかというと、中国の宋の時代の徽宗さんという、変な形の石が大好きな風流人の皇帝が、中国の全国各地から変わった形の石を集めまくって、その際に人々を徴発したり運送路の民家をぶっ壊したりして、民を苦しめまくった、という活動および、集めた石のことだ。「水滸伝」なんかにも出てくる。

花石綱は、中国のいろんなところに残されているっぽいが、上海の観光地の豫园にも1個あるし、蘇州の有名な庭園の留園にも「瑞雲峰」という奇石があって、これも花石綱の1つなのだという。

で、徽宗皇帝はこういった変な石を集めまくって、それを眺めてインスピレーションを得て、絵画とか書作とかにそれを注いでいたのだという。めいっぱい、愚行権を行使した人物だったんだなあと察せられる。

この、「構造」が描き出した意外な外形から「こういうのもアリなんだ」ということを受容して新しい表現や考え方にしていく感じが、とても詩の構造と似ているような気がする。たぶん、詩というのは、適切な単語を連ねていくようなものではなくて、不適切なものも含めて選んで、適切か不適切かを問わず、言語化できないものを提示する、というような活動なので、自然が理不尽に暴れた結果できた石の形状にインスピレーションを受ける、というのはUX的に似ている。

ChatGPTに限らず、GPTみたいなモデルは、言葉を連続させていく際に、機械学習から得られたより適切な言葉を選択するという構造を持っている。とすると、ChatGPTが一番苦手なのは、詩を書くことかもしれないし、そもそも詩とChatGPTは住む世界が違うよなあと思う。

そもそも、世の中には、言語化できないものを放出している映像作品や、料理や、建物なんかもたくさんあって、私たちはそういう詩的ないろんなものに揺さぶられて生きているような気がする。ちょっと前に「ちいかわ」を初めて読んでなぜか涙が止まらなくなったんだけれど、あれもそういうことなのかもしれない。

AIやロボットは、毎日酒を飲みすぎて怒られたりはしないし、ラスベガスのカジノでサイコロにお金を突っ込んで失ったりもしない。大事な予定を忘れて遅刻したりもしない。AIは徽宗皇帝のような愚行は絶対にしないと同時に、詩を書くような、あるいは、詩的なものにニヤニヤするような愚行は絶対にしない。

というわけで、私たちに残された最後の砦は詩なのではないか。詩人の家に育ったので、それが全く儲からないことも知っているけれど。

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