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0719「『ほどほど』の毒」

昨日書いたとおり、昨日は全身にファブリーズを浴びながら人と会っていた。人としゃべると勉強になる。昨日は、「日本は社会主義国だよね」という話を聞いて、すごくいろいろクリアになった。私が今生活の基盤にしているのはバリバリの資本主義国であるアメリカだが、バリバリの資本主義というのはものすごく残酷な世界で、たとえばニューヨークなんかは顕著だが、安い料金だと絶対においしいものなど食うことはできない。値段とおいしさは確実に比例する。ゆえに、金持ちしかおいしいものは食えない。家もそう、着るものも然りだ。全部、賭ける金に比例する。住むエリア、受ける教育、すべてがそういうノリで進む。そして、そういう社会は生きていてかなり疲れるのも事実だ。

一方で、日本という国は、もちろん格差は存在するが、相対的に、生活レベルも、生活パターンも平坦化されている。どこに行ってもそこそこおいしいものが食える。住むところも、着るものも、「そこそこ」をみんな享受できる。東京ディズニーランドは、京葉線に乗って舞浜に行けば誰でも楽しめるが、フロリダのディズニーワールドに行こうと思うと、年間でディズニー資金的なものを積み立ててみんなで飛行機に乗ってわざわざ行くようなものだ。誰でも楽しめるものになっていない。ある種、わかりやすい格差の指標にすらなっている(遠くの州からバスを乗り継いでやってくる若い子とかもいる)。

もちろんその恩恵にすら預かれない人がたくさんいるのは承知の上で、アメリカなどと比べると相対的に、まんべんなく必要なものがほどほどに行き渡っているのが日本であるとも言える。そして、それは逆に、「ほどほどに課題がない」ということにもなる。たとえば中国なんかに比べると、偽札がすごい問題になることもなければ、現金の信頼性が低い、みたいな課題はない。ゆえに、ドラスティックな課題解決としてのキャッシュレスみたいなものが普及しない。

課題解決とは関係あるのかないのかわからないが、Uberみたいなものも、AirBnBみたいなものも、結構資本主義的には自然な競争の中で生み出された知恵だが、圧力がかかってしまうのも社会主義的だよね、と言われればそうかもしれない。

別に私はマルクスの資本論も読んでいないし、これからも読まないだろう。いまさら資本論を読む暇があったら「キングダム」の最新刊を読むはずだ。なので、社会主義ってなんですか、と言われてもよくわかっていないと思われるので、上記のような説は噴飯物であるかもしれないが、肌感覚として、「これが資本主義です」と言われているアメリカで暮らしている中で感じているものに較べて、日本の社会というのはあまりに違う別の何かだということは間違いなくて、そしてそこで現出されている、「ほどほどに行き渡っている感じ」というのは巷に聞く社会主義というものに近いのではないかというのは確かにそう思う。

しかもそれは、「バリバリの社会主義」ではなく、うまいこと調和が取れた「ほどほどの社会主義」なのだ。もう日本にやってきて10日以上経つが、この「ほどほど」感ほど心地よいものはなかなかない。誰にでもコンビニのおいしいおにぎりが「配給」され、誰にでも吉野家の牛丼が「配給」されうる。

明日は日本の選挙だが、どうしても悲観してしまう。自分の子供たちの国でもあるこの国が、今のノリで進んでいくことがまずいというのは私はとても感じているが、この国の現状は、ほどほどにうまくいっていて、ほどほどに課題がぼやけているのだ。そしてこの国はもう何年も何年も「ほどほど」を選択してきた。ほどほどを選択する中でじわじわと変な方向に向かっている。しかし、そんな「ほどほど」が毒であるということを合理的に説明できるかというと、「ウーン」となってしまう自分もいる。

この文章を10年後なりに読み返して、笑っていられる程度に何も変わらないのならそれで良いが、しかし恐らくそうはならないのだろう。

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