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【芸術・論考】奇跡と簡単さについて

新曲ができないまま当noteの文章だけが増えていってしまっている感があるが、それが私の性質らしくしょうがない。書かれている内容はきっと音楽制作にもつながってくることだと思う。※文末に少し自作に触れます。


 話を分かりやすくするために「奇跡」という単語を二義に分けたい。

①とんでもなく確率が低いこと起きること
②超自然的な現象がおきること

 例えば賭け事で何連発も大当たりを引き当てることを「奇跡だ」というとき、それは第一義にあたる。確率的にはとんでもなく低いが起こりうること。猫がキーボードの上を歩いたらシェイクスピアの一節を打ったとか、分解した懐中時計をプールの中に放り投げかきまぜると偶然に時計が組みあがったとか。

 一方で第二義とは、水がぶどう酒に変わるとか、そういうことである。物理や世の理を超えること。とりわけ、“無から有を生み出す”ようなこと。今回の論考で問題にしたいのはこの第二義であり、それを指して「奇跡」という言葉を使う。
 それが現代人の心理にとってどのようでものであるか、そこに芸術がどのように関与すべきか、今回はそのキーワードを「簡単さ」に置いている。

 承知の通り、第二義の「奇跡」は起きない。少なくとも私は見たことがないし、公に観測されたものもない。現実的に生きているなら、多くの人が「見たことがない」と断言するのではないだろうか。というのも、この手の奇跡は見ればすぐにそうだと分かるからだ。
 たとえばYouTubeで「永久機関」と調べて出てくるような編集・CG技術などによって作られた動画を見ると、大人ならば多くの人が「なんか挙動おかしくない?」と思うはずだ。現実世界の理についての十分なデータベースがあるならば、それと明らかに異なる「奇跡」の動きは完全に新鮮なものとして目に障るはずだ。「これは作り物だ」と了解する。

 子供のころには違った。現実世界の理についてデータベースがないので「現実」と「奇跡」がないまぜになって、それがあるような気がしていた。錯視や妄想や夢や大人の忖度による演出に超自然的なものを見出し、そこに意味や希望を見出すことができた。

小さい頃は神様がいて 不思議に夢を叶えてくれた。

(荒井由実『やさしさに包まれたなら』)

目に映る全てのことは メッセージ

(同上)

 子供はやがて成長する中で、「奇跡」の起こらなさを実感する。どれだけ念じても空は飛べないし、かめはめ波は打てないし、美少女戦士にはなれない。「おかしいな、少し前まではできた気がするんだけど」と思うかもしれない。「奇跡」の手ごたえは体に残っている。

 「奇跡」を無くした子供は現実のままならなさに直面する。努力しないと成果を得られない。勉強しないと点数を取れないし、気を遣わないと他人と上手くいかない。

 同じ時期に、代わりに子供は“性(など)”を覚える。一度色あせた世界の中に新しく快感というものを発見する。
 自慰は奇跡に似ている。自分の体だけで快感を引き出すことができる。お金も減らないしお腹もほとんど減らない。妄想と手などがあるだけでいい。これはまるでスープが無限に湧き出る器、小麦が増殖する甕、いくらでも引き落とせるATM、まあなんでもいいがとにかくそういうものに思える。性を好む者なら特に覚えたての若いころ、絶頂に達し呆然とする頭の中で奇跡の手ごたえと戯れた経験があるのではないだろうか。

 ほど経て、現代の子供はやがて“経済”に出会う。親の庇護の膜が薄れ、その向こうに全き数字の羅列が透けて見える。完全に確立と期待値で表される世界。その最初の出会いは人にもよるが、受験勉強などが代表的かもしれない。
 あらゆるものは投資とその回収として行われているように見える。努力は、した分だけリターンがあり、サボった分だけ損失がうまれる。労働は自給で計算される。世界中の大人が血眼になって参加している経済という厳粛なゲームでは、確率の低い当たりくじを引くということはほとんどない。すべてが“順当”にすすむ。その中でかつての子供は「奇跡」の手ごたえを忘れ、完全に大人になるだろう。


 さて、経済に投げ込まれ、そこに順応し人並に勝ちを重ねた者なら問題はない。卒業祝いでもらったネクタイを締めて溌溂と出勤すればいいだろう。   問題は、負けが込んでいる人の方だ。

 損失はアクチュアルである。努力が実を結ばないこと、投資が回収されないこと、多くの時間を投げうったにもかかわらずそれが不毛に終わること。この損失は人生を表す数直線に打たれるマーカーとして、かなり長い時間残り存在感を発揮する。その未練に引きずられ次の一歩に進めない人もいるだろう。

 安月給の労働、ないがしろな扱い、美味くない食事、満たされない欲。荒廃した生活のさなか、頭の中で常に自分の“負け”を数える。これまで一体いくつ負けただろう。埋め合わせるには、取り返すにはどうすればいいんだろう。

 この時、人は「奇跡」のことを思い出す。経済のルールを免れ、投資なしで無から有を生み出す、あの手ごたえを。

 それ以降の推移はそれぞれ微妙に違うが、大体似たようなものである。無から有を生み出す手ごたえ。いくつか例を挙げると、
・性癖に凝り著しい快感を志向する
・ギャンブルで少額の元手を倍増しようとする
・薬物で並外れた快感を得る
・怪しい投資や情報商材で一発逆転を狙う
・占いや俗説や陰謀論で知的優位に立とうとする

 これらはすべて(ほぼ)無から有を生み出そうという点で共通している(ほぼ、という点で「奇跡」の第一義も含んでくる)。わずかな資本から、莫大な富や快楽や名誉を引き出そうとする。無関係なものを連関づけて価値を創出しようとする。脳にドーパミンが走り、次へ次へと新たな「奇跡」を求め始める。これらは信仰に乏しい現代日本人にとって、蠱惑的な錬金術として立ち現れるのだ。

 ただ、その成果の多寡についてはここで語るまでもないだろう。



 さて、ここで「芸術」である。「芸術」も上で羅列したような、“無から有を生み出す手ごたえ”を求めて始めることだと思う。個人の人生経験の塵芥、負け込んだ帳簿、世界にとって無意味だったそれらを作品の形にまとめ上げることで価値を創出する。他人に分かりやすく大きな迷惑をかけない点で“善玉”といえるかもしれない(もちろんあらゆる創作の公開は多分に加虐性を含むものだが)。
 自ら創作することに限らず、他者の芸術創作を鑑賞するうえでもこの意味は通じる。共感する作品に対しては感傷を通して自らの損失の傷を癒されるし、全く新鮮なものについては新たな「奇跡」の予感を抱かせてくれる。


 ここにおいて、「簡単さ」が発揮するものはあると思う。というのも、多くの「難しさ」はその性質上“資本”と切って切り離せないからである。「難しさ」を実現するには投資が要る。リストの難曲がコンサートで発表されるまで、そのピアニストにどれだけの投資がかけられただろうか。幼少期よりレッスンを受け、自宅でも長時間練習をこなし、音楽学校・大学に入学し、きれいなドレスを用意し、企業に協賛を募る。そしてチケット代で回収する。もちろんピアノに限ったことではなく、純文学でも絵画でも、「難しさ」には金がかかる。

 別にそのような営みを下げたいわけではない。個人的に自分が絶対にできなかったことを実現する彼らを嫉妬交じりで尊敬するし、一般的にも、人間の努力が限界を超える姿には励まされるものがあるし、作品が実現する美は格別なものだろう。無くてはならない営みだと思う。

 ただ、それだけでは取りこぼされる人もいるだろうと思う。負けが込んでいる者にとって、強者がさらに勝ちを重ねる姿がどうしておもしろいだろう。


「簡単さ」はだれにとっても開かれている。あなたの少ない元手はこんな風に扱うんだよと、平易な口調で教えてくれる。人をドーパミン中毒にさせることもなく、嫉妬心も抱かせない。

 私、沼田半の創作活動『Darwin Peninsula』はそんな「簡単さ」を重視している。演奏も曲も単純。技術も素人(まあさすがにもう少し上手くても罰は当たらないんじゃいかと思うんだけど)。DTMやDAWの難しさに比べて、ルーパーやドラムマシンも一目見ればどう動いているか大体わかるものだろう。
 簡単でありつつも既存の価値体系に抵触するような価値を提示できたらと思っている。



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