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方干民(方幹民)はなぜ晩年に風景画を描いたのか(#61)

今度はモネの絵画に赤い塗料が塗られたというニュースが舞い込んできました。

この手のニュースについては以下で記事にしてみましたが、最近は別のことが気になり始めています。

少し想像してみてください。

もし作品が突発的に汚されたらどうなるでしょう。

すぐに捕まえられる気がしませんか。

なにせ器物損壊、つまり犯罪ですから。

その後すぐに警備員が来たのかはニュースを見る限りではわかりませんが、わざわざポーズまで決め込んで記念撮影をしているようはみえます。

ひょっとしたら「予め」メディアを呼び、「予め」作品が傷つかない前提で行われているのだとしたら、どこか予定調和的であり様々な胡散臭さが漂っています。

それは環境活動家だけでなく、もっと大きな規模で作品を利用している人たちがいるのかもしれません。


ところで、随分前にフリーダ・カーロについて触れたことがありました。

きっかけは日本以外の国=海外なはずなのに、それが語られるとき世界基準がアメリカやヨーロッパに限定的になりがちなことへの違和感からでした。

そもそも「美術」という言葉自体、19世紀以前にはなかったのです。
それは明治維新後に造られたもので、それゆえ対象がヨーロッパになることは必然だったのかもしれません。

ただ概念は簡単に根付くものでもなく、今現在さえ美術だとかアートだとかデザインだとか使い方がわからない始末です。
(商用的な目的として描かれるかが判断基準で、その目的のために描かれるものをデザインと呼び、そうでないものがアートといった分類がされています。)

ちなみに簡体中国語でも同じ意味で「美术 mei3 shu4」(※術と术は同じ漢字の意味)という言葉が用いられています。

こちらは日本語の「美術」という言葉が19世紀に中国へ渡っていったものです。

そして20世紀は「戦争の世紀」でしたので、否応なしに西洋列強諸国の影響を受けたのは万国共通で、カーロのメキシコ然り、様々な箇所でそれぞれの自国文化と手を結んでいきます。

隣国中国も同じで、そんな20世紀に翻弄された画家のひとりが方干民(方幹民)でした。

方干民(方幹民)とは

方干民の写真

方干民(方幹民)は彼の功績に反して作品があまり実存していない画家です。

注》方干民は「方幹民」とも書かれます。違いは繁体字か简体字か、です。彼が生きた時代に即して書けば「方幹民」で、実際サインはそうなっています。彼が大陸中国出身である点を鑑みて現在大陸中国で使用されている「方干民」で以下統一させて頂きます。

1906年中国浙江省生まれ(−1984)の方干民は上海で絵画を学んだ後、1925年フランス・パリへ留学します。
パリでは国立高等美術学校内にあったジャン=ポール・ローランスの絵画教室へ通いました。
留学時ローランスはすでに死去していましたが、この絵画教室で彼から教えを受けた人物の中にはアルフォンス・ミュシャもいたそうです。
1929年、中国へ帰国後、上海や彼の地元浙江省杭州を中心とした学校で教鞭を執ります。
僅か25歳の若さで洋画の教授職を歴任し、以後は中国国内での西洋美術の普及に務め、その功績から“中国現代芸術開拓者”と呼ばれる人物です。

方干民とキュビズム

キュビズムとは20世紀初めにパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックによって始められたものでカタチ(三次元)を二次元(キャンバス、つまり絵)的に解釈するといった概念的な創作活動です。
平たくいえば、写真のように誰もが同じように見える色や形をキャンバス上で再現するのではなく、作者自身の解釈が重要視されました。
つまり「見えたこと」ではなく、「あなたはどのように見たか」を問うた活動ともいえます。

ヨーロッパではルネサンス以降、「単一焦点からの遠近法」が採用されていました。
単一焦点とは「カメラのレンズからみえる景色」です。
その複数化は画家当人たちの表現の解放、解釈の広がりへと繋がりました。

方干民はもともと古典写実主義や表現主義に造形の深い人物でした。
その一方で当代を魅了した芸術運動はその時代を生きた芸術家にとって斬新で、やはり何某かの影響を受けたに違いありません。

《节日的西湖》(1931)
《秋曲》(1934)

1930年代、彼がまだ20代のときに描かれた上記2作品にはキュビズムの特徴でもある「複数視点」と「カタチの単純化・抽象化」といった分かりやすい特徴を垣間見ることができます。

方干民と戦争

方干民が生きた時代は清、中華民国、中華人民共和国と国号が変わる過渡期でした。
日中戦争が本格開戦したのは1937年7月7日、北京南郊にある盧溝橋での両国の衝突から日本が1945年連合国軍のポツダム宣言を受諾するまで戦争は継続します。
1931年に勃発した満州事変から数えれば、14年という長い期間を日本と戦争していました。
また同時に内戦状態でもあり、1949年に現在の中華人民共和国成立するまでそれは続きます。
方干民は時の政府中華民国政府、つまり中国国民党より歴史編纂委員に任命され、日中戦争時に歴史画の制作をします。

《孙中山先生授遗嘱图》(1935)

ちなみに同時期、日本では藤田嗣治や小磯良平などによって戦争画が描かれており、制作は記録より国威掲揚、戦意高揚に狙いがありました。
しかしそんなプロパガンダ的な要素とは裏腹に迫まってくるものが見る者へ訴えかけくるようです。

小磯良平《南京中華門の戦蹄》(1939)

物語るもの底はかない陰鬱さは国が違えど何か共通のものを伝えてきます。

蒋介石の彫像など政権に関わる作品を残したものの、それらは多くの同時代の画家同様、戦禍の中に消えていきます。

戦後及び文化大革命前夜

日中戦争、国共内戦を経て現在の中華人民共和国の国作りが進んでいきます。
日中戦争後の再びキュビズム等の現代美術復興を目指しましたが、社会主義政権下において抹殺されていきます。
やがてそれらが文化大革命の迫害対象になるまで拡大しますが、それとは別に中国人民解放軍を要請する南京軍事学院で軍史画の制作に従事したり、上海を中心に教鞭を執ったりしました。

《敌人不投降就消灭他》(淮海战役史画)(1949)
《国家考试》(1954)

文化大革命が勃発したのは1966年です。
詳細は以下記事で取り上げていますが、この運動の推進者は毛沢東で、行動の中心は紅衛兵と呼ばれる学生でした。
学生はどんどん先鋭化し、暴力や略奪といった暴徒と化していきます。

革命の歴史とは階級闘争の歴史ともいわれており、「プロレタリアート」と呼ばれる労働者階級の「ブルジョア」と呼ばれる支配者階級に対して行われた階級闘争の末、共産主義が誕生するというのがマルクスの資本論の概略です。

文化大革命では紅衛兵が毛沢東語録に従い、「ブルジョア」的というレッテルを貼ることで対象者は自己否定させ、対象物は破壊していきます。
そして解釈はどんどん歪曲、飛躍され、ただただ暴掠を繰り返していったのです。

道具と毛沢東語録を握る労働者のポスター
画像引用:ハフポスト
毛沢東と一緒に歩く農民たちのポスター
毛沢東は高等教育を受けた若者へ農民から再教育を受けるよう勧めた。
画像引用:ハフポスト

方干民は「反動学術権威」と呼ばれる知識階級として迫害の対象となります。
過激化した紅衛兵は、迫害対象者へ自殺を強いるまで責め立てて、実際自害するに至った人も多くいました。

迫害は当然人だけにとどまらず書籍や絵画など様々な文化財が紅衛兵の手によって破壊されました。

中国ではかつて秦代に「焚書坑儒」と呼ばれる儒教家を思想弾圧した事件がありましたが、その近現代版といった様相です。

焚書抗儒とは「儒教家の書籍を燃やし、彼らを生きたまま穴に埋める」という意味がある。

なぜ晩年に風景画を描いたのか

《农忙》(1974)
文化大革命期に描かれた作品
作品中心に五星紅旗を持って行進する紅衛兵らしき集団がいる。


文化大革命は推進役を担った毛沢東の死の翌年、1977年に終焉を迎えます。

当然ですが、一度破壊されたものがすべて元に戻るわけがなく中国の文化は蕩尽され、衰退したという見方もできます。

方干民は60代になってそれまでのすべてを否定させられました。
作品はぞんざいに扱われ、彼自身の自尊心は幾許だったか、想像するに耐えなくなります。

しかし彼は生き延び、そして筆を握り続けたのです。

1984年、77歳で息を引き取るまで晩年は風景画を残しています。

近代風のキュビズムを志向した方干民ですが、なぜ晩年、風景画を描いたのでしょうか?

少し脱線しますが日本で洋画家の父と呼ばれているのは黒田清輝ですが、彼も晩年風景を描いています。

黒田の場合、病床から庭にある自分の目に飛び込んだ風景をそのまま描いていったそうです。

ひょっとしたら方干民も同じく死期を悟りながら、ただただ描きたかったのではないでしょうか。

学んだことを否定され、描いたものを否定された後、残ったものは描きたい、そんな強い想いだったのかもしれません。

《西湖黄龙洞》(1981)
《东湖即景》(1981)
《江南水乡》(1982)
《盆景》(1983)
《拱宸桥北河道风光》(1983)

まるでジオラマのように小さく描かれた風景画の中にいる人々の姿はどことなくキュビズム的技法で描かれる人体を思わせます。

人とわかる外観、色彩を備えつつ、それぞれには表情はありません。

しかしどこか素朴でおおらかさがあるようです。

日中戦争、文化大革命を経て作品は暴力的に破壊されていくという悲劇に見舞われながらも、どうしてこんなに柔らかで優しい絵を描けるのだと感服してしまいます。

怒り、憎しみや絶望がなかったわけではないと思いますが、残された作品からはそんな要素をまるで感じさせません。

この風景画こそ芸術とは何か、といった真髄が隠されているような気がしています。

風景画はそんな様々な方干民の想いを再現するのに適していたモチーフだったのかもしれません。

つまり、強さとは“優しさ”であり、真の芸術とは“負けることがない”のだと。

<注>写真引用:特にURL等がないもの以外、すべて百度百科より引用しています。

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