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看书:『母という呪縛 娘という牢獄』(#58)

ふとインターネットを閲覧していたとき目にしたのが本作を知るきっかけでした。
2018年、滋賀県守谷市の野洲川河川敷で人の胴体部が発見されたことで本事件は世間に明るみになります。
容疑者は河川敷から数百メートル離れた場所に住む30代女性で、被害者はその容疑者の母親でした。
死体損壊、死体遺棄という事実を認めつつも、殺人については否認します。
一審では被告人容疑否認の上、懲役15年が言い渡されるものの上告後、被告は殺人について認め、懲役10年と大幅な減刑となるのですが、彼女が上告において彼女がなぜ殺人を認めるに至ったか、そこまでの母親との関係が犯罪の伏線となって浮上していくのでした。

もしかしたら常人にはこうした殺人の背景にある何らかの家庭問題に際して覚える違和感もも当事者にはあまり感じられないのかもしれません。
なぜならそんな“異常”な日常ですら当人にとってはあくまで普通に存在するものであるからです。
自分自身を客観視できないのではなく、そんな異常な現状こそが当事者にとってのベンチマークになっています。
その場合、特に異常かどうかを自分自身で判断するのは中々難しいです。
私は幼少期に虐待を受けていた方が急にその頃(幼少期)の話を持ち出したとき、いやに同情的な気分となりました。
しかしながらその方はあっけらかんとして話を続け、むしろこちらを不思議そうに見つめます。
成長してその経験を克服してもなお、それがあたかも自身の身の上に起こった普通の出来事、それは小さいときに親と遊園地へ行った思い出を語るかのように、淡々と話す姿に「何が普通かはたとえ他人が異常だと感じても自覚的に知ることは難しいものなのだな」とそのとき感じました。
当事者にとって、その日常が非日常であるかどうかは逆側の世界に触れない限り、その逆の世界が必ずしも居心地が良く、落ち着くものなのかどうかさえも含め、分かりません。

ただルポライターの方々はそんな違和感、あるいは悲しみや怒りのような感情に寄り添いながらも事実を淡々と追いかけていきます。
そうした負の感情と向き合うのは中々心労が重なるもので、そんな苦労の結晶を「書籍」という形で上梓するのですから、称賛に値します。
言葉になって読者へ伝わる当事者の痛みや苦しみは言葉になってより重みを持つものから、直接のやり取りほどは届かないものまで様々です。
ですがそんな感情は伝染して気が滅入ったり、飲み込まれてしまう可能性すらあります。
そうしたライターの日常すら蝕みそうな内容を手に取って読めることへ感謝しなければな、と思いつつ書籍を購入し、読み進めたのでした。

やはり圧倒的異常と暗がりの中、私は文字を追い掛け、そんな彼女の“絶望”に対する答えを探し始めます。

時間を掛けた見返り=サンク・コスト?

サンク・コストとは「埋没費用」と呼ばれるある事業や行為に対し、事業や行為の撤退・縮小・中止によって戻ってこない資金や労力のことを呼びます。
この書籍では被害者の母親が娘である加害者に対して度々嘲笑・叱責・罵声などを浴びせるのですが、受験という目標に対し投じた時間や心労、あるいは費用などをしきりに強調した発言が多くありました。
母親自身の見栄など含めた性格的な面、あるいは嫉妬心なども含めて、最終的には娘をどうしたいのかというより「思い通りにさせたい」というエゴを垣間見た気がしました。
しかしこのサンク・コストは何も異常な母親にだけ存在するわけでなく、多くの日常に存在しています。
たとえば別れた彼女に費やしたプレゼントやデート代を回収したいような台詞も同じ類です。
あるいは軌道修正できずに戦争を止めるに止めなかった太平洋戦争もその類かもしれません」。
つまり、ある志向に対し、軌道修正するという「言うは易く行うは難し」という状態は日常にいくつもあるのです。

服役囚となったことで加害者である娘はそのことに気づいたようでした。

“絶望”より“失望”の方が辛い?

自主性と強制を上手く重ねながら母親は娘に医学部進学を希望させます。
小さい頃から強いられた勉強によってエスカレーターで高校進学できる私立中学校へ入学するものの、そこからテストの点数に伸び悩む日々を過ごしました。

「何のために勉強するのか?」

そんな疑問は9年間の浪人生活を送るという途方も無い時間の中でも時折現れ、自主的な意思と共に現れては消えを繰り返し、そんな悩みに悩まされる姿は、誰もが抱える多くの目的なき道のりを歩み、悩む者として他人事とは思えません。
結局、母親の希望に沿えませんでしたが、大学入学に「条件付き」で辿り着いたのでした。
そこから一緒に遊園地へ行ったり、雪解けのような穏やかな時間を過ごします。
そこには主従ではない、ただただ尊重があるようでした。
そして大学生活でサークルなどにも入り、娘は緩やかな目的とともに緩やかな目的なき時間を過ごしました。

もし「条件付き」もなく、大学入学もなかったら彼女にとって「絶望という日常」が続いていたかもしれません。
しかし、その先には母親殺しはなかったのではとも考えてしまいました。
絶望から抜け出すことよりも、失望から抜け出す方が難しいのかもしれません。

失望、つまり裏切りー。

「裏切り」は当人の主観や思惑も挟んでいますが、それら主体的考えを全否定されてしまうからです。
彼女にとってたとえ受験という絶望の底にあってもそれが日常でした。
しかしながら僅かでも希望を抱いたことで、その自身の考えが全否定され、自分自身にかつて以上の失意を抱いたのではないでしょうか。
殺害に至った彼女はもしかしてそんな希望を取り払い、失望から抜け出そうという心境だったのかもしれません。

最期に

私達はある事件に対して好奇な眼差しとともに「簡単な納得」を求めようとします。
たとえば「親が異常だったから」とか「家庭環境が歪だったから」とか。
それも大雑把に言えば正しいかもしれません。
ただし、大切なのはこうした痛ましい事件の背後に隠された“それぞれの思惑”を推し量りながら、どうしたら周囲を慈しみ、想像力を働かせられるか考えることなのではないでしょうか。

彼女が本当に求めていたものは何だったのでしょう?

本当に母親からの解放だけだったのでしょうか。

本書を通してもっとそこについて考える習慣を深めていけたらいいなと思う次第です。


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