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愉しき思い出【1】

あれは小学校3年生か4年生頃のことだったかと思う。昭和58(1983)年か59(1984)年頃であるから、今から40年ほど前の話だ。小学生が夏休みになるこの季節、決まって思い出すことがある。

8月も下旬となり、地域によっては夏休みが終わりになる学校もあるようだが、当時住んでいた首都圏ベッドタウンの地域は、きっかり8月31日まで休みがあった。

当時は今と違って、子供の人数も多く、夏休みともなれば、保護者が運営していた子供会が、早朝のラジオ体操を行う習慣があった。専用の用紙にスタンプをもらい、夏休み中の登校日や夏休み明けに、担任に見せることになっていたかと記憶している。今と違ってスマホやネットがなかったので、夏休みの間、友達と遊ぶ約束をするのは、電話か、遊び終えた別れ際か、こうしたラジオ体操で会うときか、といった具合だった。

当時の夏は今よりも暑くなかった。最近は毎年夏になると決まって猛暑が話題になるが、経験的な実感だけでなく、データからも読み取れるようだ。実際、今年なども、「猛暑日」が何度かあったし、少子化とはいえ、用事で学校がある地域に行ってみても、外で遊ぶ子供を見かけることがほとんどない。熱中症の危険があるので、親は外で遊ばせることができないし、これだけ暑いと、子供も外に出たがらないのだろう。わざわざ直接会わなくても、ネットゲームでつながり合えるといった事情も関係しているようだ。筆者やその友達が今の時代、小学生だったとしても、外で遊ぶ気にはなれないだろう。

閑話休題。そういうわけで、当時は早朝のラジオ体操が定例化していたのだが、思い出すのは、それほどの縛りはないにせよ、一応は行くことになっていた学校のプールだ。夏休みの一定期間、通うことになっていた。泳ぎが苦手な私は、これが嫌で嫌で仕方がなかった。特に罰則がなかったということもあり、ほとんど通った記憶がない。

だがある日、プール期間の初めの頃だったかと思う。子供なりの義務感か気まぐれか、行ってみる気になった。小学2年生のとき、苦手なりにも泳ぎの手応えを感じてはいたので、苦手意識を克服したいという気持ちもあったのかもしれない。

水着の入った手提げ袋をぶらさげて、てくてく歩いて行った。真っ青に晴れ渡った、真夏そのものの天気だった。陽射しは強く、暑く、いつもの登下校の道のりは、独りということもあってか、それなりの間隔を感じさせるだけの重さ、そして心の会話があり、自然がダイレクトに差し込んでくる感覚があった。

ようやく学校へ着いた。敷地内のプールの出入り口に向かって歩いた。水着に着替えて、消毒用の腰洗い槽を経てプールまで上っていくことになっていた。出入口から細い通路が伸びており、向かって右側に更衣室、左側にプールが終わってから消毒用の塩素を洗い落とすためのシャワーがある。出入口には、担任になったことはないが、顔は知っているといった程度の男性教員が、──おそらく当番で児童を管理するために出勤していたのだろう──門番のように立っていた。気さくで親しみやすい笑顔を向けていた。到着順に荷物を点検して、出欠確認をしていた。

その日の参加児童はまばらだった。自主性を重んじているところがあったので、暑さのせいで少なかったのかもしれない。順番待ちをしている子はほとんどいなかった。着いたらすぐに私の番になった。その教員は、私の荷物を点検し始めた。

…と同時にいきなり笑い出した。

「お前、これ、女子用の水着だぞ!ワハハハハ!!」

母が入れ間違えたのだろう。妹の水着が入っていたのだった。

私はその場に立ち尽くした。その言い方が、いかにもからかい半分に感じられたこともあり、すぐさま、屈辱感と悔しさがないまぜになった感情が込み上げてきた。

家路に急いだ。ここの記憶はほぼ空白だ。急いだことだけは覚えている。

そして家に着いた。日中だったので、父は仕事、母は買い物か何かで不在だった。妹も遊びに行っていたのかいなかった。唯一、当時存命中だった母方の祖母が、不穏な空気を察してか、二階の部屋から下りてきた。私は帰るなり、玄関から上がり框を急いで、階段に腰掛けながらやり場のない気持ちを抑えきれないでいた。

「どうしたの?玲君…」

そう声をかけられたと同時に、堤を切ったように泣き出した。事情説明はしたのだろうが、やり場のない感情が上回った。子供だったのだ。祖母は気の毒そうになだめ慰めしてくれたが、それが尚更拍車をかけた。

後にも先にも、夏休みのプールは、ほとんどこの日1回限りしか記憶にない。ささやかな克己心が挫かれたのかもしれない。プールに行かなくてもよい、という自分なりの口実ができて、安堵したのかもしれない。

(終)

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