見出し画像

読書記録・マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #Me Tooに加われない男たち

マイノリティへの配慮や研究が日々広がるなかで、他人にも自分にもアイデンティティを示す手段が増えてきた。マイノリティとして置かれてきた人も可視化されて昔よりも肩身が狭くはないのかもしれない。

「マイノリティ」であるとはなんだろうか。この本を手にする人は(自分も含め)「まっとうだと思っていない人(疑問を持ち生活している人)」なのだろう。まっとうである(認識)人はそもそもまっとうであることを取り上げることはしない。そうそうと頷きながら読んでいると私の頭には過去職場にいたあの上司が思い浮かんだ。

「マイノリティ」のくくり方をされていても、切り取り方によっては私たちは加害者にも被害者にもなれる。LGBTQの中でもパートナーの有無や恋愛や結婚がどうだとか、価値観や制度のあり方はどちらかというとまだまだ異性愛に基づいた多数派の制度に寄りがちだ。「マジョリティ」を考えることは切り取り方の「作法」を身に着けることなのだ。

本書はマイノリティと相対する「マジョリティ」の位置づけを定義しなおすことがテーマだ。誰もがなんらかしらのマイノリティであり、マジョリティである。多数派の男性を主軸に書かれているが、ジェンダー問題に限らず、性別や年代を問わず、客観的な視点で見直す必要のあることだ。

 「マジョリティであう私たちは、特別な事情がないかぎり、マジョリティであることからわざわざ『降りる』ことをしません。というか、そもそも『今とは違う生き方をするか、しないか』を自由意思で選べること、それもまたマジョリティの特権にほかなりません。降りられるという特権、降りるという選択肢があることの特権です。」

 「そもそも『何が偏見であり差別なのか、自分にはわからないかもしれない』という不安、居心地の笑うさ、すなわち無知と無力こそが、差別の問題を考えていくためのデフォルトであり、まっとうな出発点ではないか。…  (以下略)」(p.24)

私は日本において表だった人種差別というものに遭遇したことはない。それというのも私たちは無知だという自覚がないおかげかもしれない。でも私は加害者ではない、むしろ被害者だ、の言い争いの光景は目にするし、分からないことに対する恐怖心とは隣り合わせで生活している。だからこそ日本人であるがゆえの特権をあらためて認識することが必要だ。ラベルを貼りあう前に、差別の何たるかを取り上げているだけでは、回避手段とも言いがたいし、根本的解決にまではいたらないからだ。

「マイクロアグレッションとは、あからさまなヘイトスピーチや差別行為ではなく、ちょっとしたた日々のやり取りの中で行われる無自覚で捉えにくいmicroな差別のことです。有色人種や女性、LGBTに対して最大の気概を加えるのは、あからさまで極端な差別を行う≪意識的な加害者≫よりも、≪善良で、平等主義の価値観を持ち、自身の道徳性を信じ、公平できちんとした人物であり、けっして意識的に差別など働かないという自己認識を持った人々≫である。そう主張するのです。(p34)

私たちは善良で平和的人間だという認識がある、それを認識していくためにマジョリティが何たるかを改めて見直す機会が必要だという。

 「マイノリティについて学ぶこと、マジョリティがいかにマイノリティを排除し支配し搾取しているかについて学ぶことはなされるが、マジョリティ側が特権によって受ける恩恵について知り、それに自覚的に向き合うことを学ぶ場所は少ない、とグッドマンは言っています。」
(「真のダイバーシティをめざして―特権い無自覚なマジョリティのための社会的公正教育」 ダイアン・J・グッドマン)(p.39)


マジョリティとして存在し続けている

 「マジョリティという特権集団(階級)の特性には、次のような側面があります。たとえば正常性(normalcy)。これは自分たちの内集団こそが正常である、と思い込むことです。あるいは優位性(superiority)自分たちは正常であるばかりではなく、自分たちの方が優れている、という思い込みのことです。
 マジョリティが特権集団であるとは、その全員が金持ちだったり幸福だったりするという意味ではなく、マジョリティはただ単に存在しているだけでさまざまな一定の利益を得ているということであり、多種多様なマイノリティ集団のことを抑圧し、不利益を強いているということです。」(p.40)
「そもそも、マイノリティが日々自分たちのマイノリティ性に直面せざるをえないのに対し、マジョリティは日常生活のほとんどの場面で自分たちがマジョリティであるとことさえ意識せずにすみます。自覚し、意識しなくても、生活を送れるのです。」(p41)

「なにも、権利や地位や所得の面での特権があるだけではありません。問題そのものに無知で無自覚で無関心でいられるということ、それがマジョリティの最大の特権なのです。」(p42)

筆者はマジョリティにはマジョリティたらしめる特権があると指摘する。

マジョリティの自分たち(集団)が生きている日常にはなんら支障をきたすものはない。自分たち(集団)の均衡が危ぶまれるときにだけ、自分たちとは異なる集団をコントロールできると思っている。無自覚でいられる(姿勢)そのものが特権なのだ。

多文化共生時代のジレンマ

多様性や多文化共生が是とされ、マイノリティや社会的排除を被った人々のニーズがひとまず『社会問題』として認知されるものの、まさにそのことによって、それが単なる無数の社会の問題の中の一つ(one of them)として無害化=無痛化され、支配的な構造の中に柔らかく吸収されてしまうのです」(p.103)

「マジョリティが自分をかえていこうとすると、そこにはやはり、複雑な抵抗感があったり、恐怖があったり、感情的な反発を抱いてしまう。それはある意味では当然とも言えます。(以下略)だからそこには、「物わかりのいい」理解や反省だけではなく、情動的な抵抗感を伴う「自覚」のプロセスが必要なのでしょう。(p.114)
「ジェンダー、人種・民族、障害、経済階級などが複合的にからみあっていること。それは交差性(intersectionality)を呼ばれます。私たちは女性、性的マイノリティ、障害者、移民・難民、在日外国人などの人々の現実を重層的にみつめていかねばなりません。」(p94)

「階級/性別/民族/障害という四つの変数のもと、重層差別とはいくつかの差別を同時に受けている状態である、としたら、複合差別は「差別相互の関係にねじれや逆転があるもの」を意味すると述べています。」(上野千鶴子 「複合差別論」、「岩波講座 現代社会学15 差別と共生の社会学」岩波書店、1996)
  たとえば障害者+女性という二重の差別を強いられる身として生まれ、それを否定するために過度に恋愛や結婚にこだわり、未婚の障害者や子どものいない女性を差別してしまう、というような複雑な葛藤のあり方を想像してみましょう。」(p.96)

マイノリティが社会に取り上げられるようになったことで(マイノリティ側の)私がまた別の差別に振り分けられる葛藤も出てくる可能性もある。一方、(マジョリティ側の)私にとってはマイノリティ⇔マジョリティの相対構図に収まらず、マジョリティであることそのものへの反省と、自覚のプロセスが求められていることに気づかされていく。

マジョリティ男性の段階的モデル


マジョリティと一言にいったところで、すべての男性が等しく理解があるとは限らない。著者はマジョリティ男性の三つのモデルを記している。

(A)保守的で家父長的な男性モデル
(B)リベラルで正平等的な男性モデル
(C)内省的でquestioningな男性モデル

 著者は「(B)のモデルで「構造・制度・法などの変革を目指す」+「個人の自由を確保する(自由放任、非介入、他社への寛容)」というスタンスを理想として掲げ、「男性(個人)は女性や性的マイノリティの声に耳を傾け、そのアライとなり、自らの暴力性・権力性・無自覚をどこまでも反省し続けるべきである、と考えます。」(p124)
***
「(C)の男性モデルは自分(たち)がマジョリティであることの自明性をつねに疑い、自らを動的に変化させていくようなモデルです。無自覚さと自覚のあわいを生き続けるようなマジョリティ。自然(ナチュラル)でも普通(ノーマル)でもないまっとうなマジョリティになっていく、ということ。この場合の一つの鍵となりうるのは、多数派の男性たちの中にすらあるはずの性的違和ではないか。」

「性的違和」とは、肉体・精神的意味に限らず、男性であることで与えられ、課せられ、強化され続けてきた男らしさ(価値観)に、男としての私が気づいたことで起こる動揺だ。

「覇権的な規範としての「男らしさ」や「「男はこういう生き方」をするべきだ」という価値観に対して違和感や抵抗感を覚えること、どこか折り合いのつかなさをかんじること、それもまた広い意味での性的違和であると言えないでしょうか。シスヘテロの多数派男性の中にも、何らかの形で、そしてさまざまな形で、「男」であることへの性的な違和感や曖昧な揺らぎがある。」とも挙げている。

(C)のタイプは、痛みと引き換えに男であることを受け入れることを同時に行っている。マジョリティに属している自覚と、ときには抑圧されてきた男らしさの間を行き来しながら共存していく意味で性的違和に対しても積極的に受け入れるスタンスでいられるのかもしれない。固定化された男性像を揺るがす一つのいいモデルになると思う。

多数派男性としてのまっとうさとは

「誰かが『あいつは男らしくない』『あの子はおかしい』と嘲笑ったとき、そんなことはない、それは違う、と口に出して言えること。主語の大きさ(「男」「日本人」)に逃げ込まずに、個人的な痛みを個人として実感できる、ということ。そんなものはおかしいんだ、と公然と主張できること。
正しさを暴走させがちな男性たちこそが、まずは自分の傷つきやすさを受け入れ、他者へのケア責任を、まっとうさ(=社会的正義に対する感覚)を目指すべきではないか。」

私がマイノリティだから、マジョリティだから、という構図だけでは立場を主張しているだけにすぎず、私たちはラベルがあることで安心しきっているかもしれない。安易にマイノリティだからというのも、またそれも違う承認欲に近い別の問題にすり替わるようにも思う。ALLY(アライ)であることの大切さはあるが、そこに私のアイデンティティを求めることとはイコールではない。

 共感するだけでは差別そのものに切り込んだ視点とはいえない。そのコミュニティでしか孕んでいない差別もあること、自分の身のまわりの社会が、何に囲まれて生きているのか観察することの方が、男性像の構造的な問題に気づくために必要ではないかと思った。

知らないことをいかに自覚できるかどうか、そこからが出発点だ。