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「どんなものも忘れ去られてほしくない」怪獣歌会の往復書簡【6】

話題は「対話」から「多様性」へ。

人と人の出会いによって世界が豊かになると考える鳥居。
対する川野は、人と人の出会いは常に権力や同調圧力を含んでいて、平準化を引き起こすのではないかと語ります。
「人を繋ぐことに興味がない」という川野の発言の背景には、「誰のことも侵害したくない」という思いがあったのでした。

この文章は怪獣歌会の鳥居と川野の間で交わされた往復書簡の第6回、川野の返信を収録しています。

以前の往復書簡はこちらからどうぞ(第6回からでも楽しく読めます)
https://note.mu/quaijiu/m/m8a3a640a2809

※この往復書簡は4往復で終わります。このエントリでは、3往復目の復路を公開しています。

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チェロの話、そう、それなの!
言葉は、単語のひとつひとつが用例の集積でしょ。どのように使われたかによって意味が変容していく。たったひとつの言葉を耳にするときも、そこにはその言葉が歴史の中で、文学の中で、あるいは我々の日常生活の中で発せられてきたすべての時間、すべての引用の反照があると思う。だから言葉を発することは言葉への贈り物であり、私が発した言葉も、言葉そのものの中に記憶されている。
言葉は人と人との間に発現するので、とりあえずは自分の作品も人に届けようとしているのだけど、ほんとうはそれこそ荒野の真ん中で発せられた、誰も聞かなかった言葉も、言葉そのものが記憶しているだろうと信じている気がする。そうなると読者とか必要なくなっちゃうんだけどね。

なぜ言葉を選んだかと言われると、選んだ覚えはないんだよね。選ばれたわけでもない。
第一に、世界の最小の元素は言葉だと思っているから。でもそれは、どうしてそう思うのか、どうして他のものが最小の元素ではないのか、という問いへの答えにはならない。だって踊りや音楽やコンピューターのことは、そもそも何ひとつ知らないし。だからそれらを選ぶ人が間違っていると言うつもりは全然ないし。それらを選ぶ人に世界がどう見えているのかは、聞いてみたいな。(あと、言葉にならないものは存在していないのだ、と考えているわけでもなさそう。私はよく「言語化する」とか「ようやく言語化できた」みたいな言い方をするので、ということは「言語化される前のもの」が存在するという考え方はしてるんだろうな)。
第二に、言葉以外のことは私がやらなきゃいけないことではないから。私はできないことや向いてないことが非常に多くて、できないことを努力によってできることに変えようという発想もあんまりない(たまに試みて大惨事になる)。他のことは他の人がやるでしょ、と思ってる。
自分には物理的な身体があってそれは物理法則を逃れられないんだ、ってこと、君はいつから知ってました? 私は二十歳くらいの時かな。それでは踊りやスポーツを選びようがないよね。
だからこの問いには普遍的な話につながる答えは全然出せなくて、「私は言葉が好きだし、好きなことしかできないしやりたくないから」というのが一番正確な答えになっちゃうのかなあ。
ここも私と君の違うところだよね。私はよく君に対して「君って何でもできるね……」って言ってしまう(それはちょっと把握としても表現としても雑すぎて君は嬉しくないかもしれない、ごめん)。怪獣歌会のHPを作ったのも君だしこのnoteを管理してくれてるのも君だしこのたいへんかわいい怪獣ロゴを作ったのも君だしネットプリント等を作るとき組版をしてくれるのも君だし、人と人を繋ぐこともできるし、そうしたこと全部、君はなんらかの形で勉強して獲得したのよね。それは私にはできないことだし、それができる人は何でもできるなあと思う。

もしかしたら、私は何も忘れたくないのかもしれません。正確に言うと、どんなものも忘れ去られてほしくない。
私は致命的に片付けができないのですが、その理由のひとつに、ものを捨てるのが苦手というのがあるように思います。
物への執着は強い方ではないと思う。そうではなくて、執着も思い入れもないような物、目の前からなくなれば私の記憶からも消えてしまうような物を捨てるのが怖い。私が物を捨てることで、それは誰の記憶にも残らず、はじめからなかったもののように消えてしまうことが怖い。
この世のすべてを記憶していてくれる存在がいれば、私は安心して何もかも忘れられるのに。
日記を書こうと試みたことが何度かあるのですが、何もかもを記録に留めておこうとするあまり、生活時間の方が侵蝕されてしまうので、いつも長続きはしませんでした。
12、3歳の頃つけていた日記に、壊れ物についてのエッセイのような文章があります。ものごころついてからそのときまでに壊した、あるいは壊れた、ビー玉や人形用ティーセットや、そうした硝子や陶磁器の記憶を覚えている限り羅列したものでした。失われたもののことを、忘れてはならないと思っていて、その記憶を自分の頭の中だけで保持しているのも重かったのだと思います。
いまも私は、台風のあと無惨な姿で倒れていた鴉や、夏の舗石の上で干からびている蚯蚓たち、道路に落ちているところを助けようと思ったらもう体の半分がなかった甲虫、駅の構内で、私の手の届かないところで少しずつ死んでいった夏の蝶、そうした、おそらくは私の他に悼むものを持たないだろう死者たちのことを、忘れてしまわないように時々思い出しては数え上げているのだけど、これから先出会う死者が増えていけばいつか私の記憶から溢れ出してしまうだろう、いや、ほんとうはもう数えきれないほどのものを零してしまってそのことさえ忘れてしまったのだろう、ということを怖れています。

でもこれは、どうして創作をするかの答えにはならないな。
記録としての短歌という考え方もあるけれど、私の感覚としては、君が手紙で書いてくれた、「短歌は『存在しない記憶を描き出す』」という方がしっくり来ます。
君は主に読者側の話をしていたけれど、作るときもそうで、何か忘れたくないことがあって歌を作るのだとしても、定型という他者の介在によって、出来上がったものはまったく別のものにならざるを得なくて、行ったことのないはずの場所の記憶が自分の中に生まれるみたいで。
定型に限らず、言葉という他者が介在した時点で、記憶も思考も変質するのだと思う。でも言葉がなければ記憶も思考も不可能なのだと。

かつて、文章を推敲するのが苦手でした。苦手というより苦痛だった。
書くのはできるの。書くときはたいてい、書くことによって初めて言葉が生まれてくる、遠いところから自分を通って言葉が現れてくるという感じ。
でも推敲しようとする時点で、それを書いた自分は、一日前であれ、一週間前であれ、一年前であれ過去の自分で、過去の自分というのは他者で、その過去の自分にとってさえ他者的なものであった文章に現在の自分が手を入れるというのは、他者を侵害する行為であるような、もう抗議することもできない死者の口を塞ぐ行為であるような気がしてつらかった。
今はもう慣れてしまったけれど、忘れてはいけない気がして時々思い出します。

多様性についての質問に答えてくれてありがとう。
この質問をしたのは、他者の侵害についてもう少し考えたかったからです。
書簡【3】で君は人と人を繋ぐことについて説明してくれました。

要するに別々の人の時間や記憶が出会うことに可能性を見出しているし、もっと人は脱線してほしいと思ってる。
人間は適当に生活をしていると習慣の中でこじんまりと保守的になっていってしまうからね。

こういう考え方は私にはあんまりなかったなと思って、面白かった(全くないわけでは多分なくて、だからこそ私はこうして君と話しているのだと思うのだけど)。
それで私の考え方について顧みてみると、私は人と人の出会いというものを考えたときに不幸なイメージのほうが先に出てくるように思う。
AとBが出会ってCが生まれるというより、AとBが出会って両方Aになっちゃう感じ。人がたくさん集まったら多様になるのではなく平準化されてしまうイメージ。人と人が出会うと権力や同調圧力が生まれてしまうから。
いっときガラパゴス化って言葉が流行ったでしょ、あれは揶揄の文脈だったけど、実際のガラパゴス諸島は、周囲から隔絶されることによって生物が独自の進化を遂げ、世界の多様性を担保しているよね。
私はガラパゴス諸島がいっぱいあればいいと思うの。外界と接触せずに閉じ籠もって、なんでこうなったんだかわからない独自の進化を遂げたい。
でもガラパゴスの多様性に気付くためにはガラパゴスとガラパゴス以外を知っていないといけないものな、その意味ではやっぱり「繋げる」必要が出てくるんだろうな。
(あとガラパゴスの比喩を歌壇とかの特定のコミュニティにあてはめるのは危険で、歌壇は確かに外の社会から隔絶されることによって独自のものを残すことができているけれど、歌壇内部から見ればそれもまたひとつの社会に過ぎなくて、外の社会と同様に同調圧力や抑圧の機能を不可分の要素として構成されているわけだよね。うーむ、なんか「ひとりでいたい、誰のことも侵害したくないしされたくない」というやや極端な結論になってしまいそう。)

君にとっての他者は、もしかしたら言葉で構成されているのでは

これはそうだと思う。というか、世界は言葉で構成されていて、人間も言葉で構成されていて、世界の最小の元素は言葉で、そして最大の他者というのは言葉で。
対話って可能なのかな、と前に書いたけど、人と話すとき、私は人間ではなくて言葉と話しているのだと思う。
私は嘘を吐くのがわりと苦手です。歌会のときも、言うことが厳しいと言われることがあって、自分は誰のために評をしているのだろう、作者のためか、他の参加者のためか、などと考えてみるんだけどどれもしっくり来なくて、私はただ、差し出された言葉(ここでは歌や他の人の評)に対しては全力の応答をしなくてはならない、と思っているだけなんだよね。
でも、それは時間や空間をともにしてくれている生身(なんてものがあるのかわからないけど)の人間に対して不誠実なのではないか、という懸念はあります。
だから君がこの往復書簡が楽しいと言ってくれてよかったな。この手紙も、私は君のためというよりは自分のため、最終的には言葉のために書いていると思う。それが君をないがしろにしたり、君を利用することになっていないのであれば、ほんとうによかった。

往復書簡が終わってもまたやりたいね。君とは頻繁に話しているから、新しく書くようなことはないかもしれないと始める前は思っていたけど、杞憂だった。やはり色々な対話の形式を試みるといいんだろうか。次は糸電話で話してみる?(あ、でも私電話苦手なんだった。)

君は、どうして言葉で創作をするのですか? それは他のものとどう違いますか、あるいは同じですか?
そしてこれだけ話したあとなら、最初の話題、すなわちインターネットの短歌と雑誌の短歌の話題に戻っても興味を持って聞けるんじゃないかと思うんだけど、よかったら今まで話したことを踏まえて、君の現在の関心事をもう一度説明してくれませんか?(でもそれでまた「やっぱり興味ないわ」ってなったらあまりにも申し訳ないな……。)

2018/6/30 川野芽生

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謎の情熱に駆り立てられるまま毎日手紙を送りあった一週間も大詰め、書簡はついに最後の往復に入ります。

繋ぎたい人と繋ぎたくない人、人間が好きな人と言葉が好きな人、なんでもできる(らしい)人とひとつのことしかできない(らしい)人。二人の楽しくも妥協のないやりとりを最後までお楽しみください。

最終回「わかりあうこと、違うままでいること」


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