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エゼキエル戦争は起こり得るか

エゼキエル戦争は現存のイスラエル国家への諸国の侵略で発生するのか?

さてさて、二十世紀に長く生きた人々にとっての「21世紀」とは、人類が大きく飛躍するはずの「希望の未来」であった。世界は二度の大戦と核兵器の登場に教訓を学び、二十世紀でさえ科学は生活を徐々に快適で容易にしつつあったので、次の世紀は以前とは比べ物にならない夢が様々に予想され、その想像図に滑躍らせたものであった。
だが、現実に今我々の目にする悪夢のようなこの光景はいったい何なのだろう。世界各地で流血の争いは止まず、便利な技術も人々の格差を埋めるでもなく、却って僅かな富裕層に富がますます集積してゆく。それに加えて地球の様子もおかしく、旱魃と洪水が思わぬ地域に襲い掛かるようになってきた。

世界がこの2020年代に入ってからというもの、特に情勢が大きく動き出した観がある。新型肺炎のウイルスによるパンデミックだけでも世界を震撼させるに充分であったばかりでなく、それに続いて前世紀に特徴的であった世界大戦を彷彿とさせるような市民とインフラへの攻撃が公然と行われる野蛮な戦争の悲惨が東西の諸国を巻き込んで我々の目の前に勃発するに至った。

一瞬で過ぎ去る日常生活、21世紀の現実
明日は我が身

当初ロシアの大統領は、すみやかでスマートな特殊な作戦により電撃的にウクライナを制圧するつもりであったようだが、西側の情報とサポートを受けていたウクライナはロシアの思惑をつぶしてしまい、引っ込みのつかないロシアは無様な泥仕合を始め、双方ともに人命の浪費と無数の悲劇から逃れられなくなっている。国家間の戦闘という合法的な大殺戮に双方の人々が狩り出されて家族も分断され、戦線から離れた町々の日常でさえ飛来する武器によって突然の修羅場とされている。

世界は2019年より前の人々はこうした将来を予期していなかったであろうから、今後、将来の人類は歴史を振り返って、あの2020年を混迷の始まりであったと語るのではないだろうか。その情勢の中で、パンデミックに戦争、経済分断に物価高と続き、この先に何が世界を待っているのかについて様々な憶測が聞かれるなかに「エゼキエル戦争」と呼ばれる大戦争が起こるのではないかという声も出る昨今ではある。それだけ世界があらぬ方向に動き出したかのように多くの人々に感じられるということなのであろう。世界大戦の惨禍は今世紀にも繰り返され、世界の大半の人々が否応なく巻き込まれるのだろうか?

そもそも「エゼキエル戦争」とは、旧約聖書にあるその名の預言書の第38~39章にかけて記されている終末を描く記述の中で、『北の果て』に在るという国家を首謀者とする軍事同盟が、多くの日々の後、即ち世界の末日に『イスラエルの山々』に侵攻し、その連合軍の全体が神の介入により壊滅して果てるとの内容から、そう呼ばれるようになった仮称であって、聖書中に「エゼキエル戦争」の名称が書かれているわけではない。

だが、その内容が今般のウクライナの戦争の先行きを語っているかのように捉える人々によって、「エゼキエル戦争」と呼ばれる事態がこの情勢の先に成就を待っているのではないかという見解が表明されるようになってきたが、この「エゼキエル戦争」と呼ばれる預言書の戦いは、結論を言えば神と人類との闘争であり、太古のシュメール文明以降の一続きの「この世」を締め括る意味を持っており、その意味では「最終戦争」と言え、黙示録に知られる「ハルマゲドンの戦い」をも暗示しているものである。

エゼキエルの預言によれば、そのイスラエルの攻める国家連合に中には、北方の諸部族に加え、アナトリア(現トルコ)やペルシアやエチオピアなどを含むことも記され、多様な国々の名がエゼキエル書に列挙されているので、これは第三次大戦のことであると判断されそうなものではある。
しかし、エゼキエルの預言する国際的な戦役は、後述するように、世界大戦とは性質を異にしており、人々の想定のはるか上をゆくものである。それは人間の正義が一つに高まる事態を前提としており、現状のような人間同士の正義のぶつかり合いでは済まないものである。

さて、近ごろの世相からすれば、特に『北の果ての国』をロシアと想定し、そこに近頃緊密に協力してきたペルシアの後継であるイランの動きとイスラエルの対立が顕著に増して来たところで、今般のロシアによるイスラエルとの間の軍事行動により、このエゼキエルの預言の唱えるような趨勢が醸造されてきたと思える向きがメディアの中で語るようなことになってはいる。

加えて、紛らわしいことに、その首謀国について預言書ではヘブライ語のままの発音なら『ロシュ』と呼んでいる。これは文語訳聖書など一部の聖書翻訳に記載されてはいるのだが、これは「盟主」「君主」を表す語であって、ロシアの「ルーシ」(船を漕ぐ人)とは何の関わりも持っていない。しかし、『北の果て』やら『ロシュ』やらと書かれていると、多くの人々はどうしてもこじつけたい衝動に駆られるに違いない。好奇心に先走るその人たちには多少の理屈はどうでもよくなってくる。

だが、それは情報通ではあっても普段から聖書に関わりの少ない人間が、不思議な言葉の一致に惹かれてたまたま預言書に近づいた以上のことでもなく、また別の何かの事に好奇心がそそられれば、さっさとそちらに流れてゆくだけのこと。だが、そのように軽くあしらうエゼキエル預言の本旨を知るなら、世界大戦の比ではない恐るべき驚愕の将来像に唖然とすることであろう。
エゼキエルが最終戦争を予告した頃、同時代の別の預言者エレミヤは、それが神と人との闘争となることをこう預言している。
『その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。YHWH*が諸国の民と争い、すべての者を裁き、悪者どもを剣に渡される』(エレミヤ25:31)*聖なる神名

他方で世相に目を向ければ、このところの中東情勢には以前には見られない動きが表れるようになってきた。イスラエルとの和解ムードにあったはずのサウジが米国との関係を冷え込ませイランに近づいたことは中東の情勢の流動性を再認識させるものとなってきた。
加えて、あの確固たるイスラム国家と見られたイランでは、ヒジャブの着用が相応しくないとのことで風紀警察に逮捕された若い女性が、僅か数日で死去したところで当局への鬱積した民衆の不満が全国規模で爆発し、イスラム(服従)の教えの履行について、信者でもあるはずの民衆の反発を買い、これまでにはなかったようなデモと騒擾が全国規模で発生したことは、それを見る諸外国からも驚きを惹き起こすものとなった。

人々の批判は道徳警察の対応の問題を越え、ヒジャブ着用の是非にまで向かう

だが、やはりイスラムの体制は自己正当化以外に道を選ぶことはないらしく、イランも他の圧制的な宗教や国家ともそこは変わらず、目立たぬように粛清を始めることになってしまった。イスラム教では「タウヒード」と呼ばれる神の唯一性を強調する概念から政教を分離しない。ここが近代西欧の在り方と異なっている。実は、後述するようにモーセの律法が国民法であったため、ユダヤ教信者が大半を占めるイスラエル国も結果的に政治と宗教の分離は曖昧である実態がある。つまり、ユダヤもイスラムも政治に於いて極めて宗教的な思考を行う背景を持っている。

政治が欲の調停の場であるとすると、そこに信仰心も絡んで来れば、当然事は更に複雑になってくる。宗教や宗派でも教えも違えば人の正義感も異なるからこれは自明の理であろう。それぞれの「正しさ」を巡って争う要件が増えるからなのだ。

やはり宗教という心の拠り所を持つこの世であっても、それが人々の生活を強く支配すれば、法則的な結果として信仰する人々は独裁政治のように生き辛いものを甘受することになる。
法則といえば、新約聖書に書いてあることでは、イエス・キリストの弟とされるヤコブが指摘するように、争いの根源が人間自身の内面に有る以上、誰であれ敬虔を装ったからとてその自己満足は何の解決にもなりはしない。宗教に熱心であればそれだけ平和になるだろうか?実際にはその逆の事が起きている。

ヤコブは争い続ける人間の問題を次のように喝破した。
『あなたがたの中の戦いや争いは、いったいどこから起るのか。それはほかならぬあなたがたの肢体の中からの相争う欲情ではないか。
あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。それでも熱望するが手に入れることができない。そこでさらに争い戦う。
あなたがたは求めないから得られないのだ。確かに求めてはしても与えられない。それは自分の快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。
不貞のやからよ。世を友とするのは神への敵対であることを知らないか。
おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである』。
(ヤコブ4:1-4)

この法則によれば、武器があるから戦いが有るのではなく、人間というものに染みついている貪欲からくる「それぞれの正義の戦い」にあり、一度争いが始まってしまえば憎しみが増幅されるばかりであって、これは始末に負えない正義感と闘争の肥大化であり、これが世の常となってきた。

他方で聖書が『義人は居ない。ひとりも居ない』と言うように、人間には倫理不全という厄介な性質がどうしてもぬぐえない。利他的になれないわけではないのだが、思想信条に関わりなく、いざとなれば利己心が勝り、それが絶えず平和を脅かす。そのような個人が集まって『この世』を作っている。
やはり旧約聖書でソロモンが、『常に善を行なって罪をおかすことのない義なる者など、地にひとりもいない』と端的に言い切っている。

それであるから、誰かが平和を唱えたところで人間の本性については実質の変化は何もなく、社会は相変わらず利己的であり、平和への努力も続けないわけにもゆかないのだが、人類は争いというものを耐え続ける以外にない。(ローマ3:10/イザヤ57:20-21)
これが聖書に云うところの『アダムの罪』*であり、聖書が教える根本的問題点なのである。この倫理不全が人類全体に及んでいることは世相を幾らか見るだけで十分過ぎるほどにその証拠に気付けるものである。つまりは、聖書によれば、人類みなおしなべて『罪人』なのである。
そして、この『罪』という根本原因をどうするかを扱うためのキリスト教であったのだが、今ではそのキリスト教の教えもやはり他の宗教と大差ない状態にある。*(カトリックでは「原罪」とも)

さて、元よりイスラム国家イランは、イスラエルによるパレスチナ人への収奪と差別についてイスラム諸国の中でも特に強い非難を行ってきた。
確かに、イスラムの教えでは困窮者への配慮が制度化されており、モーセの律法とは違う形で具体化されている。ハマスは過激派やテロ組織として非難されるものの、困窮者に手厚いところがあるには、イスラムのこの良い面が反映されているからであろう。
イスラム教徒ならずとも、ユダヤ人によるパレスチナ人への扱いの実態を知るなら、第三者として同情と義憤を禁じ得ないところは確かに在り、やはり不公正がそこに有る。我々日本人であれば、いきなり家も土地を奪われ、隔離の壁の外に締め出されるだけでなく、就職の自由も、道路を使った移動の自由も、水道設備を使う自由もないパレスチナ人の置かれた立場に不平を言わずに済ませるだろうか?
イスラエルの国会にはアラブ系議員も二割は居るとは言うのだが言い訳のように聞こえる。イスラエルは先進的な共和国の外見をしていながら、さほど公正で自由な国とは言えない実情がある。あの国はフランスのように百年もの苦労をして「ライシテ」なる政教分離を敢行したわけではなく、「シオニズム」という建国の由来からして、どうしても民族が古来背負ってきた旧約聖書の教えが混じるほかない。そこには選民思想の優越感が拭えない。

四千年も前の父祖アブラハムに神がパレスチナの土地をその子孫に与える約束をしたという創世記に記されたことへの宗教的正当化がイスラエルにあるなら、現代的な公正の感覚も、所有権も、法の精神も制限されることになり、しかも。ユダヤ人がパレシチナ人を排除することを聖書の神に責任を負わせてきることになる。これでは問題が難しくなるばかりである。そのうえイスラエルとアラブとは共にアブラハムという一人の人物を父祖とする兄弟民族というではないか!
しかも、ユダヤ人が従うべきモーセの律法には『あなたがたは外人居留者を自分自身のように愛さなければならない。あなたがたも(奴隷であった)エジプトでは外人居留者であったからである』と命じられているにも関わらずのことである。(申命記19:33-34)
イスラエルの神は『外人居留者を守る神』であり、イスラエルも自らその救いに与ったのではなかったか。(詩篇146:9)
まして近代のユダヤ人も、古代エジプトと言わずヨーロッパ各地での寄留者となっての辛酸を舐めた経験には事欠かないはずではないか。そこで共感や同情心は育たなかったのか。しかも、タルムードはもとより異邦人との共生する上での知恵を教えるものではないか。

一方のイスラムを奉じるパレスチナ人について、イランは同じイスラムの信仰者への不公正に対する強い正義感と憎しみから、「イスラエルを地上から消し去る」と宣言することまでしてきた。これは本来イスラエルを聖書を信奉する「経典の民」として尊重するよう教えたイスラムとは合致しないところがあり、本来のイスラムは聖書を信奉する民を容認し、特別な税金を課すほどで同居を容認してきたのである。イスラムを剣の宗教とばかり思い込むのは正しくはない。
イランがイスラエルに反対するのも、それだけイスラム同胞へのイスラエルの仕打ちへの義憤が強いともいえる。しかし、そうなるとユダヤ人はモーセの律法に従っておらず、イランもムハンマドやクルアーンの方針に反していることになる。
その結果、イスラムとしての正義、また当然のイランの核開発の策動も、一方のイスラエルに存在するとされる核兵器に対抗し、彼らもそれを持つことを切望し、嘆かわしくも共に宗教性の強い国家同士が恐るべき核兵器を持とうとする矛盾を我々は見なければならない状態にある。気付けば、インドとパキスタンの核兵器保持も宗教がらみであった。しかし、これでは宗教とはいったい何なのか?


イスラエル兵に連行されるパレスチナの子供 (拷問されることもあるという)
これに似た場面が「シントラーのリスト」にもあったが、その子は赤いコートを着た少女だった

しかも、これはパレスチナ問題でさえ分かり易い二極対立では済まず、そこにもってきてユダヤ教のスーパー正統派は、何とイスラエルが共和政であることを良しとせず、現状のイスラエルはユダヤ教から見て正しくないとし、却ってパレスチナ人と連帯してデモを共にし、イスラエルの現体制に反対する勢力まで存在する。その動機もまた宗教なのである。
こうなると日本人にはチンプンカンプンではないか。
超絶正統派の彼らの主張では、現状のイスラエル国家は西欧的世俗主義との妥協の産物であって、イスラエルを統治するべきなのは古代ダヴィデ王の子孫であるメシアであり、イスラエルは民主主義国家ではあってはならず、王国でなくてならない。

こうして絡みに絡んだ糸のように解くのが難しい問題は、もはや丁寧にほぐすことを諦め、それぞれがバッサリと切り絶とうとするばかりで、ミサイルが飛び、戦車が街をのし歩くことになっている。
だが、復讐のミサイルを飛ばしたり、それを迎え撃つための精巧なアイアンドームに巨額の資金を投じる前に、よほどするべき事はないものだろうか。

さてさて、2014年以来、打ち続くウクライナ東部でのロシア系住民とウクライナ人との抗争のなかで、ミンスク合意も一向に履行されずNATO側の浸食に業を煮やしたであろうロシア大統領は領土獲得の野心をも絡めたか、遂に軍事力の行使に踏み切り、ウクライナをロシアに引き戻そうとの実力行使に出た。
そうしてロシアの大統領は悲痛な思いを双方の人々に課し、互いの絆を引き裂いたが、それもロシアとウクライナは兄弟だと言いつつのことである。
それはくすぶる抗争とは比べものにならないほどの損害、残虐をもたらして未だに終わらずにいるばかりか、死者、負傷者、捕虜拷問、虐殺、強制移住、徴兵、孤児と迷子、飢えと寒さ、落胆と敵意を増し加えつつある。これらが「人間の正義」の報いとなっている。悲嘆にはどちら側も変わりはないのだが、怒りの感情が正義を煽り立てて行き、「正しいこと」よりも「価値あること」が忘れられてゆく。「人間の正義」なぞその程度のものではないか。もとより倫理不全を抱える人類にはどんな正義を唱えようと平和は訪れないものらしい。

突然に母国ウクライナを追われる人々・・・
陸続きに逃れる国があるのは不幸中の幸いか

そこに西側からの経済制裁を受けていたイランがロシアに武器を供与してその侵略に加担し始めたところで事はややこしくなり、ロシアとイスラエルの関係に亀裂を生む危険性が出てきたので、それを聖書のエゼキエルの預言書第38章以降にある『北の果てからイスラエルの山々に』攻め込むという北からの敵が、『ペルシア、エチオピア、プト(リビア)』を伴うと記されているところから、このようにロシアとイスラエルの緊張の高まりを通して、エゼキエルの預言の部分に記される『北の果てからイスラエルの山々に』攻め込む事態を予想して、『北の果て』であるロシアを攻撃側の中心とする「エゼキエル戦争が起こるのではないか」という噂が飛び交っているのである。

このロシアとイランばかりを悪役に据えるような見方は、キリスト教もやはり西側サイドばかりの見方で、エゼキエル書のその部分が似ているということに過ぎないにも関わらず、実は言葉の上辺をなぞって自己満足的に「想定」の一部に加えている。だからと言って、聖書の全体を受け入れ熟読しているでもない。

そしてイスラエルに肩入れする背後にキリスト教のユダヤ教贔屓があり、これがまた厄介な要素になっている。
特に米国の中西部で圧倒的なキリスト教原理主義は、自分たちの信じる旧約聖書の預言が実際のイスラエルに成就すると思い込んでおり、熱心な信者はパレスチナに赴いてユダヤ人のキブツ(集団農場)で共に作業に加わる巡礼のような習慣をもつほどである。

これらのキリスト教徒の多くは、聖書を絶対の神の言葉、しかも正確で信じる者に善意を表す著作であると信じ込んでいるのだが、これにはキリストの時代のパリサイ派という既視感がある。つまり、同じく聖書の言葉の表面に拘った点ではまったく熱心であったのだが、神から約束されたメシア=キリストに最も強く反対し、遂には処刑に追い込んだのであった。そこに足りなかったのは、自然な価値観であり、それを持っていたのは、聖書もユダヤの規約(ミシュナー)にも詳しくない当時ユダヤの下層民であった。これは宗教上の大きな矛盾であり、聖書の言葉によって信仰者だけでなく、最悪の悪人をも召喚するという人知を超えた神のトリックでもあった。

そこにもってきて米国はイスラエル本国よりもユダヤ系が多く住み、様々な中枢部で活躍している実情がある。米国はユダヤ人無しには十分機能しないと言って過言でなく、イスラエルに肩入れしないわけにもゆかない。
こうして三大一神教のそれぞれの関わりが露わにされることになる。
日本はといえば、曖昧な多神教の神道に無神論の仏教が浸透し、強いドグマから避けられ、それでいて他者を顧み、犯罪が少なく、自然な価値観が通用するという例外的に住みよい環境にあるのがありがたい。


さて本題に戻って、聖書に云う「エゼキエル戦争」の実体は何であるのか?
確かにエゼキエルは『末の日』、即ち「この世の終わり」に臨む出来事が記されていることをその記述で明らかにしているが、攻撃の標的とされる『イスラエルの山々』とは、実際のパレスチナの場所さえ指しておらず、その記述には実態を明かさないよう、人々が地図に拘るように仕向ける神の罠がある。聖書自身が『神の言葉は生きていて力を及ぼし、人の思いと意向とを切り絶つ』と述べている。つまり、それを読んで誰でも同じように益を得て善人になるのではなく、その人の性質を暴くという恐るべき書なのだ。

それにしても聖書とは最大の頒布数を誇るというばかりでなく、読んでそのままに理解できるところが少ないという奇書でもある。
聖書中には、誤解を招いた人々がその内面の動機を白日の下に曝すための罠の言葉があちこちに散りばめられている。第一世紀にキリストが現れたとき、ユダヤ人の多くがこの罠にはまり、自分は神に是認されていると思い込みつつナザレ人イエスに強烈に反対し、刑死に追いやったのも、キリスト殺害というこれ以上ない悪人をその信仰者から召喚し、『神の子羊』を屠らせるという神の意志を成し遂げさせるための使役であった。
確かに聖書はキリストがナザレから来るとは書かれておらず、彼らは聖書の文言の表面に拘って神の罠に落ちたのである。

本来、新約聖書のパウロの論議に見られるように、「真実のアブラハムの子孫たるイスラエル」とは、争い続ける血統上の『肉のイスラエル』と異なり、人間を『罪』から救い出し、世界に祝福を与えるための『諸国民の光り』となるべき人々の民を指すもので、土地争いを繰り返し、世界に危険をもたらすいるような国民を指してはいない。
「真実のイスラエル」とは、他者を武力で攻め立てることなく、むしろ『剣を執る者は剣によって滅ぶ』と教えたキリストの道、その受難を共にするべき『聖なる者ら』であることを新約聖書は教えている。
だが、キリスト教といえば、やはり争いを繰り返してきたところでは他の宗教と特に変わらない。いや、その正義を押し通す力はどの民族にも遜色ない。

そのため、聖書という書物は誰にとっても同じ価値を持つものにはならない。読む者に良い感化を与え、敬虔な人格を培わせて救いを与えるという平板な思考から離れないと、かつてのユダヤの宗教家らと同じ罠に捕らえられるに違いない。

預言者エゼキエルの預言した大きな戦争は、聖書が終末に起こると予告する顕著な二度行われるの戦争の内の二番目に当たる「最終戦争」を指しているのだが、この度のウクライナ侵攻はその一度目にもならない。
ダニエル書などの旧約預言を追えば、終末の一度目の対立は『北の王』と『南の王』の二大覇権国家の直接対決の戦いであり、今般のような代理戦争ではないのである。その一度目の二大覇権国の戦争の最中にその一方の国家が、なぜか突然の権力喪失を起こして歴史の舞台から去ってしまうとダニエル書の第11章に預言されている。
聖書預言はそれぞれ相互に補完しており、エゼキエルの一部分だけを取り上げて何かを断じることを例えれば、象の尾に触れて「象とは細いものですね」と言うに等しい。つまりは「群盲、象をなでる」ということになる。

それであるから、未だに一度目の世界権力同士による戦役が起こっていない現在は、依然として聖書が『終わりの日』と呼ぶ期間には入っていないと云える。より警戒すべきは二つの覇権国家の対立が顕著となる時代の到来であり、ウクライナ侵攻で国力の脆弱さを見せ始めたロシアは、その覇権の一方となり得るかどうかも疑わしい趨勢に入ってきた。

それでも確かに聖書の記述には侮れないものがあり、かつて西暦前537年にバビロン捕囚から解かれたユダヤ人がパレスチナに戻って後、彼らの神YHWHの神殿をエルサレムに再建し、その祭祀を復興するまでに要した年月は、預言者エレミヤが警告した最初の神殿が前586年にバビロニアに破壊されてから丁度七十年を経た後の前515年に、同じエレミヤの預言した七十年との年数通りに再建されている。(エレミヤ29:10/エズラ6:15/ダニエル9:17)

また、イエス・キリストがエルサレムの第二の神殿が完膚なきまでに破壊されることを受難の数日前に預言してから37年を経た西暦70年に、当時のローマ帝国の四つの軍団の攻囲によりその言葉がユダヤ人の上に実際の成就を見ている。ローマ軍はエルサレムの街の周囲を柵ですっかり囲い込み、市内から出られないようしたため、市内には疫病と食糧不足が蔓延し、母親が嬰児を食らうという地獄のような悲惨が襲った。(ルカ21:20-22)
これはイエスを葬り去ったユダヤのその世代への応報でもあり、このことは戦争、疫病、飢餓を予告したキリスト自身の『これらのすべての事(エルサレムの滅び)が、この世代の内に起こるであろう』と予告していた通りであった。(ルカ19:43-44)
また、新約聖書で使徒パウロも予告していたように、西暦70年のエルサレムと神殿の滅びがモーセの律法に基づく神殿祭祀の体制の終了を画したのであり、やはりパウロがユダヤの体制について『まもなく消え去る』と生前に予告していた通りとなった。(ヘブライ8:13)

そして実際に、ローマの四個軍団と諸国の連合軍の合計六万の軍勢がエルサレムを攻囲して、これを完膚なきまでに破壊した事実がある。やがてユダヤ人は亡民となって世界に散り、モーセの律法による宗教体制は崩壊し、キリストの時代以降の今日までの二千年にわたって神殿を失った彼らには律法のすべてを守ることも不可能となっている。このエルサレムと神殿の滅びが起きなかったなら、その後のユダヤ人離散の悲劇もシオニズムも必要のなかったことであろう。

さて、ユダヤ民族がパレスチナを去って以降、やがてムハンマドがイスラム教を興し、エルサレムの神殿跡地にはイスラムの二つのドームがその境内を占めるようになった。他方でユダヤ教正統派は、神殿を再建して良いのは「メシアだけである」との見解を崩していない。「メシア」とは「キリスト」のことであるが、イエスをメシアと認めなかったユダヤ教徒にとっての神によって到来が約束されたメシアは今日までも未到来のままなのである。

この状況はユダヤ教内部にも不安要素を醸し出しているといえる。ユダヤ教側は神殿跡地、なかでもかつて存在した神殿の中心部を神聖視して足を踏み入れることを避けるが、軍事力で聖域を占領しているユダヤ側は、イスラム教徒には検問を設けつつも、岩のドームやアル・アクサモスクへの礼拝のための入域を不承不承に許可してきた。だが、双方には緊張が絶えず、しょっちゅう流血の騒擾が起こるのである。

その度にハマスはユダヤ側にロケット弾を撃ち込んできたので、イスラエルはそれらを正確に撃ち落とすアイアンドームという優秀な技術を発展させてきた履歴があり、ウクライナにミサイル攻撃を止めないロシアに対して、イスラエルがこれをウクライナに提与したものかどうかも注目をされている。ロシアはイラン由来のドローンを相当数用いているので、この辺りにもエゼキエル戦争勃発のリアリティを感じさせるものとはなっている。つまり、ウクライナに於いて、イランの武器をイスラエルの防衛システムが撃ち落とすという緊迫した事態の到来である。だが、現在のところそれは実現してはいない。おそらく、ロシアには多くのユダヤ人やユダヤ系の人々が残っているので、イスラエルはロシアとの対立を避けて来た経緯もあろう。だが、確かにイランが核兵器を完成させることをイスラエルは傍観するとも思えない。

そのうえイスラムとの対立から、現エルサレムの神殿跡地は宗教的に不穏な状態で、イスラムの岩のドームとアルアクサ・ドームがそこに存在しているのは、ユダヤ側にとっては最も聖なる場所を異教徒に踏み躙られていることになり、それを解決するには、七億ともそれ以上ともいわれる全イスラム教徒を相手にすることになり、パレスチナ人を追い出したように済ませることはできない。また、神殿の再建するにはユダヤ教正統派もメシアを待たねばならないという。

だが、その一方で、エゼキエル書の中には設計図を見るかのような、異様なまでに精密な寸法の描かれた幻の新神殿に関する記述が存在している。
これは2500年にもわたって未だ実現することなく預言されたままであり、これを建設する目論見はユダヤ教徒の悲願となっている。これはやはり「エゼキエル神殿」と呼ばれるがいずれ物議をかもす時も来よう。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はそれぞれ異なってはいるが、終末にメシアを待望するところで一致しているからであり、外見は喜ばしく見えもするであろう新神殿の落成は、実は将来の世界に大きな脅威を与えるに違いない。

未建設のままエゼキエル書に寸法まで詳述される預言された神殿の想像図


このエゼキエルが預言した幻の神殿が今日のユダヤ教徒に建設を誘ってやまないのではあるが、それはキリスト教徒の多くにも預言の成就という意味で神の意志の実現と捉えて喜ばれるであろう。
だがもし、この神殿が建てられるようなことになれば、いよいよ世界は聖書に予告されるような「恐るべき平和な世界」となり、人々は『平和だ』と叫びつつ、世界的に政治と宗教が安定し調和する一時の安寧に浸ることであろう。ユダヤ教とイスラム教は和解し、キリスト教的覇権国家がそのプロセスを推進をするであろうことがエゼキエル神殿の幻と黙示録に暗示されている。強烈に相争う三つの一神教が平和を唱えることは、それ以前の対立が激しいほどに世界を安堵させるに違いなく、世の人々は安直な期待に喜び踊るであろう。

「問題を起こして止まない三大一神教が和合するなら良いことではないか」などと思うなら、まったく暢気なことである。あれらの宗教が今でさえ見せている独善性を考えてもみよ。あの頑なさが三倍の勢いを得て、世界に君臨を始められた日には、思想信条の自由なぞ消し飛び、逃れ場が無いのに追いやられるような事態を覚悟せねばならない。

その中心は三大宗教の本家本元のユダヤ教に違いなく、イスラム側にとってもエルサレムのドームはこの世の終わりに存在していなければならず、現状の神殿跡地にユダヤ側が神殿を建てる事は困難な事情がある。しかし、エゼキエルはこの神殿の建つ場所を一言もエルサレムと言わず、シオンとも語っていない。そのうえエゼキエルに語った神はダヴィデ朝の首都であった旧来のエルサレムを実質的に忌避する文言をその神殿の記述の中で述べているのである。実にエゼキエル神殿に関する記述はモーセの律法とあちこちに一致しない点があり、これも一つの謎となっている。

もし、そこにキリスト教が黙示録を掲げて『新しいエルサレム』を提唱するとなれば、エゼキエル神殿の土地が預言にあるように『高い山の南(ネゲヴ)』と呼ばれる土地になる可能性も出て来る。
だが、この三宗教の連合であっても深刻な内紛を含んでおり、真実の平和にはならないことも聖書は暗示し、黙示録にはそれらが再び三つに裂かれる将来を述べてもいる記述がある。

他方で「エゼキエル戦争」に話を戻せば、このエゼキエル書の「北からの攻撃」の場面だけで判断すると、聖書全巻が与えている多様な示唆を無視することになる。もっとも、今般の世界情勢からたまたま「エゼキエル戦争」だけに好奇心を持った御仁にはお気の毒なことではあるのだが、聖書中の「ネヴィイーム」と呼ばれる預言書集について、そのひとつを云々する者は、それら預言書の全体はもとより、新約聖書をも含む全巻の理解を集めてはじめてその全体像をおぼろげに見るばかりであることにまず畏敬を懐く必要があろう。それを経ない浅い解釈はただ「エゼキエルにはこう書いてある」以上にはならず、その場限りのもので的外れに終わるばかりか、その預言の真意からは遠ざかってしまい、何の益も無いことになる。

先に結論を言えば、聖書の知らせる最終戦争はこれまでの世界大戦のようなものではなく、神と人類との間のこれまでにない異質な争いであり、最終的には人類軍同士の相互攻撃による自滅を招来するものの、それはもはや国家同士の戦いとはいえず、むしろ「敵の敵も敵」、「存在するものはすべて敵」という無秩序で際限のない同士討ちの武力の暴走、味方がいない大混戦となることを聖書は旧約の古代から予告しているのであり、このような同士打ちの壊滅が聖書歴史上で、一度エホシャファト王の時代に模式的に起こった戦いとして歴代誌略下の巻に描かれている。ユダに攻め込んだ百万の大軍は必勝のはずが同士討ちで壊滅してしまい、ユダ王国はまったくの不戦勝を収めたというのである。
それであるから後に預言者ヨエルは『諸国の軍勢は奮い立ってエホシャファトの谷に集合せよ、わたし(神)はそこであらゆる国々を裁く座に就く』と預言し世界を挑発するのであり、これは未だ成就していない。

やはり聖書全体の理解の上に立ってエゼキエルの預言書も読まれる必要がある。その最終戦争を新約聖書巻末の黙示録は『ハルマゲドン』、即ち大決戦の場としての「メギドの山」と呼び、神と人類軍の戦いの結果がこれ以上ないほどに勝敗が分かれることを教えるものとなっている。 ⇒ 「ハルマゲドンに向かう世界

これが「エゼキエル戦争」の姿であり、聖書の全体を読み込まなければその実像を捉えることは不可能と云って良い。これは黙示録がハルマゲドンに集合する戦いとして描き、預言者ヨエルは「エホシャファトの谷に集合する戦い」と呼び、また別の預言者ゼカリヤが『神だけが知る、夕方から明るくなる日』、また『人々が立ったまま朽ち果てる』という異様な戦いとしてそれぞれ断片的に知識を与えるものである。即ち、聖書全巻は一枚のレンズの如くに一点に焦点を合わせていると言って過言ではなく、その焦点は『終わりの日』と呼ばれる人類世界の秩序が崩落してゆくほんの数年間である。

まず、聖書は読み手に対して読んでそのまますべてを解説しようという姿勢がなく、キリストが『耳有る者は聴け』と言っては何事も例えを用いずには話さなかったところにもその姿勢が見えている。なぜかと言えば、知る事を許されていない者らが『無駄に聞き意味を悟るということのないためである』とイエスは明かしている。聖書は各個人の内心を映し出す奇書でもあり、だれもが読んで同じ結論に達するような普通の本とは言えない。

そうして人類の一人一人を神の前に裁く事、それをパウロは『人の目に見えず、聞こえず、心に浮かんだこともない秘儀(ミュステーリオン)』であると言っている。人が「神の前に裁かれる罪人」であれば、裁く神が人にすべてを話して明かす理由もないに違いない。それでは少しも裁きにならないからである。人は自らがどのような者であるかをさらけ出し、そうして自ら納得の上で裁かれることになる。
キリストが現れた当時のユダヤ体制もそうして裁かれ、ナザレのイエスをこれ以上なく明確に、また自ら進んで退け、37年後に亡国を迎えることになった。これが新約聖書最大の教訓ではないか。
その意味で聖書は、現にそこに文字の記述が存在しているのに人の理解を超え、未成就な将来を隠しつつ予告するという驚異の書と言える。つまりは人手によらない「時限テクスト」である。

さて、エセキエル第38章以降に描かれるイスラエルへの侵攻する者について「北」は、現実の地上の地名にも方角にも関係を持っていないし、また『イスラエルの山々』と称される攻撃目標も現実の共和国たるイスラエルとは本来何の関係もない。やはり当該箇所に『ロシュ』と記されるのはヘブライ語では「大君」「総首長」「第一の者」の意であり、いくらもロシアを意味しないのは幾らか詳しい者であれば知られたことである。
⇒ https://quartodecimani.hatenablog.com/entry/20161022/1477156164

むしろ注目すべきは別のところにあり、エゼキエルの当該箇所に記される戦争の首謀者である『マゴグの地のゴグ』という攻撃の主体者が何者であるのかを把握しなければこの戦いの全容を掴むこともできない道理がある。この『ゴグ』はロシアでもなければイランでもない。
したがって、「エゼキエル戦争」を云々する者は、世界情勢の現状ではなく、実はその先の時代について語る聖書の言葉に触れていることになる。

結論から言って、「エゼキエル戦争」の中で語られる、この『ゴグ』なる人物こそ強権国家の独裁者やカルト宗教の教祖どころではない悪辣な専制を発揮する「超絶的独裁者」となる「世界荒廃の元凶」なのであり、人類は未だ誰も、それが誰になるのかを知らない。
だが、恰も歴史上の最初の文明とされるシュメール期の太古からよみがえる大王のように人類を一つにまとめ上げ、急速に世界覇権の座についてしまう人物を旧約の黙示的預言が教えている。(エゼキエル38:14-16/ダニエル7:21-25/黙示録11:7)

今後、ウクライナでの戦争に続いて起こることが懸念されるのが、中国の動向であるのだが、ダニエル書によれば、その者の起こりのきっかけを作るのは、終末の二大覇権国家の一方であるらしく、その反宗教的国家『北の王』はもう一方の覇権国家からの攻撃を受けると数を頼んで一気に逆襲して優勢となり、一時は広大な範囲を侵略するが、その強権も戦いの渦中に在って突然の権力崩壊を起こし、瞬く間に過ぎ去る運命にあると聖書のダニエル書が述べている。⇒「北の王」

だが、この急速に滅び去る『北の王』とはユダヤの歴史からすると方角を意味せず、強大な二つの国家の直接的な覇権争いを意味するのである。
その『北の王』は諸国の軍事的同盟を進め、相当な勢力を作り上げる。
だが、その『北の王』の権力が興す諸国の軍事連合のまとめ役、その『北の王』の滅びを生き残り、その後の世界荒廃の火種となるであろうより強大な権力を司る者、やがて残るもう一方の覇権国家で宗教的な『南の王』の後援を得て、終末に現れるシュメール文明期の蛮王『ニムロデ』の如き世界唯一支配の座に就くことになる者を聖書黙示文が共調して語っているのである。
これらを予告しているのはダニエル書であり、その書の描くのが「終末戦争」の幾らか前に起こるとされる二大覇権国家の直接の軍事衝突である。
これについては、以下のSNS上で別記事としておいた。
「北の王による三度の軍事行動と自壊」

加えて、黙示録はその恐ろしい独裁を後押しする『南の王』について『子羊のような二本の角を持つ野獣』と描写しており、『子羊』で『野獣』という二面性を有し、『子羊』という言葉にキリスト教との関連を匂わせている。
即ち、この世の最後の強烈な独裁を後押しするのは、キリスト教的な覇権国家であることを黙示録は暗示しているのであり、これがどの国であるのかはもはや論を待たない。それは今やキリスト教が廃れた欧州のものでもないのである。

さて、そもそも「エゼキエル戦争」などと呼ぶ事そのものが安易で興味をそそるばかりの脚本に過ぎず、それが指し示す実体は『静まることのできない波打つ海』のような世相の一断面ではなく、大荒れの暴風雨にも類うべき、『マゴグの地のゴグ』の招来する異次元の戦争であり、それが「エゼキエル戦争」の実態である。
それは、この混乱収まらぬ世界そのものの終局を迎えることが人々に察知されるほどの決定的闘争、神と人との究極の論争となることを聖書は告げており、その戦いを最終的に制する覇王はキリストとなり『神の意志が地上に行われる』新たな世界を到来させるという。それが『天の王国』の実体であり、信者が死後にゆく「天国」などではない。(イザヤ57:20)

そこで「クリスチャン」なる立場を自認する人々が、ウクライナ戦争の成り行きに終末なり、携挙なり、キリストの再臨なりが近づいたと思い込むのは自由ながら、自分の安逸を喜ぶその姿勢はそれ以外の人々から見て、イスラムの人々ばかりか、悪者にされるロシアの正教会側から見てさえ不快なものであることは意識されないであろう。そこは倫理上の問題を孕むことである。

にも関わらず口角泡飛ばし「ロシアがペルシアなど連合してイスラエルを攻めるときに神の劫罰が降る」など自分の発言の不倫理性を差し置き、ロシア人やイラン人に神の裁きを語るとは。そのように神の如く人を裁くとはいったい何者だろうか。例え彼らがイスラエルと交戦したとしても、どこに神の裁きがあるだろうか。個人と神との関係に何の影響があるでもない。ただのこの世の情勢の変化、ただの人間の正義の結果ではないか。

それこそが『アダムの罪』の実態である。この倫理不全が人の内面に宿る限り、人は犯罪も戦争も止めることが不可能である。そこで聖書に『義人はいない、一人もいない』と述べるように、神の前にあらゆる人は裁かれる前の罪人に過ぎず、それゆえキリストの犠牲による罪の赦し、即ち『贖罪』を要している。ましてバプテスマを受けたからとパリサイのような自己義認の傲慢を示していながら、どうしてキリスト教を名乗れるか。キリストを裁いたユダヤの大祭司カイヤファが、また祭司長派がイエスに何をしたかを思い起こすなら「自分の正しさ」それこそが悪の本質ではないか。

では、エゼキエルの当該箇所の真相を知るべく『ゴグとマゴグ』を探るときに現状で何が分かるだろうか。
その預言の言葉を挙げて説明すれば、預言で云うところの『北』との言葉が方角を指していないことを踏まえ、軍事連合が攻め込む『イスラエルの山々』の実体は何か、『ハモナ』と称する都市は何の象徴か、これらを把握できずにエゼキエル戦争の戦争だけ云々でもない。
そして何より注目すべきは、その攻撃の主体者たるマゴグの地のゴグであり、これがエゼキエルの該当箇所で最も注目すべき主役である。

その者については、ロシアが以前は覇権国家であったとはいえ、「ゴグ」はそれどころの権勢には収まらない終末のニムロデなのであり、「生ける偶像」と化して今日まで一度も存在したことのないほどの権勢を持ち、ほかならぬ神に人類の軍事力を束ねて逆らわせ、遂に世の滅びをもたらす元凶となる。まさしく創世記の「ニムロデ」の名に「抵抗しようではないか」の意味がある通りのことであり、言語が分化していなかった時代に、人類世界を危うく制覇しそうになったこの者の影響は、終末に唯一の覇権国家として残る最後の超大国の後ろ盾を得て、有史以来見たこともないほどの独裁権力を今後に世人に見せることであろう。

キリスト教国家といえるほどの大国が後押しするのであれば、それは人々にとって善人の代表のように受け入れやすく、最も著名な人物の姿(読者は悟れ)で現れるのがゴグであり、もちろん最高の義人を装いはしても、その人物は自らをゴグだともニムロデだとも言うわけがない。古来、最も悪辣な者は善人の仮面を付けるものではないか。我々は『その後について行ってはならない』と他ならぬキリストから警告されている。

こうして、聖書は最高度の義と究極の悪の双方を呼び起こし、この世を裁いて終わらせることであろう。
その時は近いのか? おそらく近いのであろう。


この件に関しては以下のリンク先の記事を参照頂ければ少なくとも参考にはなろうと思われる。

「マゴグの地のゴグの素性を暴く」
https://quartodecimani.livedoor.blog/archives/52001273.html



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