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孫泰蔵『冒険の書』にて(能力信仰の始まり)

この書物は、教師の立場を崩す「禁断の書」です。既存の学校教育に見切りをつけられる大人が、頭を整理するために読んでみてはどうだろう。

 あらためて「能力(ability)」とはなにかを考えてみましょう。ズバリ結論を言うと、「能力」とは「知能(intelligence)」を測る「知能テスト」が一般に広まったことによって生まれた統計的な概念です。そして、ただの統計上での数字でしかない「能力」を、まるでそれが存在するかのように考えるようになった「信仰」の一種なのです。
 僕は能力信仰がどのように生まれ、どう発展していったのかを探りました。そして、ついにその直接の起源をつきとめました。
 それは、フランスの心理学者アルフレッド・ビネー博士とセオドア・シモン博士が1905年に開発した「知能指数(IQ=Intelligence Quotient)」を測るテストです。このテストによって「知能(intelligence)」という概念が生まれました。このテストは知的障がい児を見分けるためにつくられたのですが、第一次世界大戦中にアメリカの心理学者のロバート・ヤーキーズ博士が開発した「アーミー・アルファ/ベータ」が175万人の米軍兵士の配属を決めるのにつかわれたのを皮切りにアメリカの優生学者のカール・C・ブリガム博士が作成した大学入学試験用のSAT(Scholastic Assessment Test)などに応用され、企業や学校などを通じて世界中に広がっていきました。
 こうして、人々は統計的な数字でしかない「能力」を「人それぞれが生まれ持った特殊なもの」や「磨けばさらに高まっていくもの」のように考えるようになったのです。
 さらに、人々が「能力は実体として存在する」と考えたことにより、それをあがめる「能力信仰」が生まれ、人々の間で信じられるようになっていきます。
 その理由は、私たちが生きる産業社会との深い結びつきに見いだすことができます。
 産業社会の最大の特徴は「分業」です。効率を高めるために仕事をこま切れにし、専門をとことん追求します。実際、工業生産は分業と機械化によってめざましく成長しました。そこで、工場で働く人間も専門的な知識や技能を伸ばすことが求められるようになりました。そして、人々は「優秀な能力を持つ人は高い給料をもらうことができ、そうでない人は給料が安くて当然だ」と考えるようになったのです。
 こうして「能力」は万能な「通貨(utility)」のようにみなされるようになり、人々は「能力さえあればなんでもできる」と考えるようになりました。お金持ちが世の中をブイブイいわせているように、「能力持ち」になれば世の中をうまくわたっていけると信じるようになったのです。――pp.160-162

第3章「考えを口に出そう」「能力という名の信仰」

それで、学校は「能力」を身につけさせるための訓練所になったのだ。

以上、言語学的制約から自由になるために。つづく。