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踊りが季節を破壊する

タイトルがT.M.Revolutionの歌詞みたいになってしまった。未だかつて一年の振り替えリというものをちゃんとしたことがない。

一年前の年末は何をしていたのか、それをパッと思い出せる人は凄いなぁと思う。昔のスケジュール帳を引っ張り出してきてようやく、あっ!と何を自分がやっていたのかを思い出すのだった。

丁度一年前の2014年からは仕事も住んでいるところも、付き合う周りの人も変わっている。

時間の面白いところは12か月間を12等分して、はい1カ月分の時間ね、と分割されたとしてもケーキを等分するように同じサイズで同じ味とはならないところである。

時間は全人類にとって平等だが、その中身は恐ろしく不平等である。一年間あっという間だね、というのが年の瀬には世間的な挨拶として聞くようになる。けれども「この一年の個人的な時間」というのはまるで人によって違うので、「あっという間だね。」と挨拶した直後、本当にそうだったかな?と疑ってしまっていた。

例えば半年前に会ったばかりの友人がもう昔から何年も付き合いがあるような感覚がしたり、一昨日に遊んだように思っていたことがもう2年前のことだったりすることはないだろうか。え!倉敷に遊びに行ったのが今年の5月かよ!?と予定を振り返るたびに自分の時間感覚が外の時計と一致しないので困惑している。哲学には明るくないので、誰かがこの事象を分かりやすく説明してくれれば良いのになあと思っている。


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個人的な2015年、夏に行った岐阜の盆踊りが強烈だった。祭りは節目のハレであり日常はケであるとしたら、まさに直接的なハレだった。東京でも渋谷のスクランブル交差点に行けばハロウィンが見れるし、クリスマスからお正月までどこからともなく人は集まってきてイベントには事欠かない。しかしいくら我々がお祭り好きの民族としても、ハロウィンのお祭り騒ぎを経過したことによって私達はハレを通過したのかというと”ウン”と素直にいえないのであった。

そのような身軽に参加できるイベントはそこら中に溢れるようになってしまっている。そのところ、岐阜の郡上市のお祭りは現代の流れとに逆行するかような祭りである。7月終わりから8月頭までハレがずっと続くのである。これは良く考えれば恐ろしいことで、例えばハロウィンが、クリスマスが、今日も明日も明後日も続くようなことが予想できるだろうか。お祭りの興奮よりも飽きることが真っ先にくるだろう。明日も明後日もそれを続けてしまう、あるいは続いて欲しいということ自体が稀有だ。それを400年に渡ってその場所で営む人がいて、きっと来年も再来年もその次も、と続いていく文化が現代にまだあったのだった。

お盆の間は特別に夜通しで朝まで本気で踊り続けるのが通例らしく、高校生とみえる若者がまさに踊りとその場とに一体化しようとしているのを目撃した。履いている下駄さえもその場には不要、ということで脱ぎ捨ててしまって周りを気にしていない様子。

持てるエネルギーの全てをただ純粋に開放していた。なんというか現代的な省エネモード、いかに効率よく最小限の力によってゴール目指すというヤツとは何もかもが逆だった。効率とか最短距離とかもうどうでも良いだろう!と突き破って開放していることがかえってよりエネルギーを拡大させているようだった。粋というのはこういうことを言うんだと思った。

思い出すのは2日目に土砂降りの雨が降ったと時のこと。容赦ない雨が深夜に渡って直撃したが、それさえも踊るのを止める理由にはなっていなかった。一体何が起こっていたのかが分からなく不思議で帰って来てyoutubeで踊りを検索してみた。当時の様子はいくらでも出てきたのだが、あのいつまでも続いた良いのにな、という感覚はその場に行かないと本当には分からないということを知った。文化が身体を直撃するという体験があるのである。

それでさらに大変だったのは、東京へ帰ってきても郡上のハレが終わっていないということだった。ケ(日常)がいつまでも始まらない。夜8時になってなぜあの踊りが今日も始まらないんだ、と何日も何日も本気で不思議で仕方が無かったのだ。


似たようなことでは、旅行から帰ってきて明日から実生活が始まるというときに、頭では分かっているのに身体は旅した場所に置いてきてしまったというようなあの感覚。頭と身体が別の場所にあるのだ。ほ、ひょっとすると”文化、カルチャー”というのは頭による意思ではなく、身体の営みによって産み出されてきたものなのではないか。音楽はどこから生まれたか?”人の声”から始まった。日本文学初期の「万葉集」は”うた”から始まっている。その点”頭で考える”ということことはある意味とてつもなく弱く、脆い。強烈な意志、理由を考えなくてはならないものはどう考えても営みを続けていくのにはそれ自体がしんどすぎる。

例えば、季節の変わり目というのを題材としてみよう。春が来る直前、誰もがその予感を身体が感じている。その時のことを書いてみるとこうだ。
春が来た!春の風がするぞ!え!春だって?ほら!外に出てみろよ!うわ...本当だ!吹き飛ぶような春の香りだ!

文字を並べたらバカみたいな文章になってしまうがこのことをロジカルに説明せよ、という問いがあったら逆にとんでもない嘘が並べられそうだ。

今年の発見のひとつは文化的な営み、というのは頭でなくて身体が発するものだということだった。人と遊ぶのも、文を書くのも話すのも、歯を磨くことも、写真を撮ることも全てが頭で考えるのでなくて、身体が先だ。だから頭がそこに”ああしよう”と立ち入ったり、変な努力目標を掲げてみても結果的にうまくは行かないことが多いのだった。何かをするという時に、それやりたいのかな、とかできるのかなと頭は理由を考え始める。でもそれは身体が感じていることとは思い込みという名の無関係なことかもしれない。

”飛び込んでやっちまえばいいんだよ”

これから秋が来る、冬がくる、そして春がくる、というときのどこから来たか分からない風の香り。それは今よりももっと強烈に昔の人は直に季節を感じていて、だからこそ歌を詠むというような営みが身体に存在していたのだろう。

photo by takeho masuda


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