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テニス競技と茶の湯

こんばんは。
3連休初日は、80年代前半に活躍した伝説のプロテニスプレーヤーという名の悪童(今はおやじ?)、ジョン・マッケンローの記録をたどる映画『完璧さの帝国』をみてきました。

映画の後半では、1984年の全仏オープンの映像が繰り広げられます。予想外の長期戦でマッケンローは「完璧」に近づいていくのですが、ここでは単なるマッケンローの好プレー&奇行観戦だけでなく、高い能力をもつ人間の思考と感情の露出があり、最後まで目が離せませんでした。

テニスはお遊び程度の知識しかないのですが、それでもテニスという道を辿ったひとりのプロフェッショナルの姿には、多くのことを学ばせてもらった気分です。
この天才テニスプレイヤーのことばによると、テニスというのは誰かとの勝ち負けではなく、常に自分自身との戦いであること。
彼が求めたのは、彼自身のプレーにおいて、ひとつひとつのパフォーマンスが完璧であること(すこし意訳)。
あまりに自分に厳しすぎた結果、周りにも自分と同じくらいの厳格さを求めるが故に、周囲の人間、審判や観客まにも悪態をついてしまうのですが……。

しかし競技においてはひとつひとつの過程を手を抜かず、丁寧に向き合い、よりよいものを求めること、これは茶の湯の一期一会の精神に通じるものを感じました。

茶の湯は誰かと競うものでは全くないのですが、それでも時々他人のお点前のあげ足をとったり、評価をしている先輩方をみかけます。今まではその方々のヘソの曲がり具合に感心したものですが(嫌味ではなく)、もしかしたらその方々は自身のお茶に対する自負があったからこそ、他人のミスも許せないという、わたしなんかとは別の境地にいるのかもしれないという一つの視点を発見しました。

また 別の観点でいうと、茶の湯は、お点前自身がひとつの芸術だと思います。その点で、亭主はプレイヤーでありパフォーマーであって、より良いパフォーマンスのための100の教えを利休さんは(実際は誰かが利休さんの名の下に)残してくださっています。他人をどうこういうより、原点に返ろう。

私はまだまだ美しいお点前とは遠いところにいますが(見る人を冷や冷やさせるお点前ならできる)、わびさびの心を胸に、お茶を点てていきたいと思いました。

映画鑑賞後は先生のお宅へ、茶事の準備の手伝いへ。明日から二日間は、今季最後の炉を惜しむお茶事を開いてくださいます。

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