見出し画像

なぜジョージアワインか

対面で人と会う機会が増え、度々聞かれるようになった質問があります。

「なぜジョージアワインを輸入することになったのか」だったり、「なんでジョージアワインが好きなのか」「いかにしてジョージアワインと知り合ったのか」など聞き方はまちまちだけれども、どうやら、ジョージアワインに関わることになった経緯に興味を持たれているようです。

もしキラキラな理由(ってなんだろう)を期待していたら、あまり楽しく語れる自信がないので、この先は読まないの推奨。

一応「ジョージアワインとの出会い」というnoteでさらりと書いてはいるのですが、今一度読み返してみたらそういえば戦争の話とかは触れてなかったですね。まぁそもそもモスクワに住んでたところから唐突に話が始まるので、いきなり感はあるのですけどね…

このたびのプーチンの戦争で有名になり、ロシアで起きた過去のテロや戦争や暗殺事件に関してはたびたび日本のワイドショーなどでも掘り返されるので関心がある方はおそらく知っていることも多いと思いますが、私がその昔身近に感じた事件は時系列に並べると以下のとおり。

1999年:ロシア高層アパート連続爆破事件
2002年:モスクワ劇場占拠事件
2004年:ベスラン学校占拠事件
2006年:ジャーナリスト暗殺事件
2006年:ジョージアのミネラルウォーターとワイン禁輸政策(2013年まで)
2008年:南オセチア紛争(グルジア戦争)
2010年:モスクワ地下鉄爆破テロ(※パルク・クリトゥーリ駅)
2014年:ロシアによるクリミア併合

どれくらいロシアにいたんですかともよく聞かれますが細切れに何度も行ったり来たりしてるので、正直よくわからなくなってきました。1999年は短期留学、2000年は極東、2002年は長期留学、2004~2007年は仕事があったので在住し、2007~2012年はロシア企業勤務のため出張ベースで仕事をし、2013~2014年は地方都市に何度か行きました。そして最後にモスクワを訪れたのは2018年のことです。足掛け20年くらいはロシアに現を抜かしていたとも言えます。

長いこと関わり続けてご縁のあったロシアではあるけれど、仕事をしていた以上は大変なことも多かったものです。

さてジョージアの料理やワインのロシアにおける位置付けですが、ロシアにいてちょっとエキゾチックで凝っていて、美味いものでも食べに行くかといえばジョージアか中央アジアのごはんになるんじゃないかという気がします。日本で韓国料理や中華を食べに行く感覚に近い、とでもいうのでしょうか。ワインは全体的に甘口が主流なものの、やはり美味しいワインといえば"グルジンスカヤ"(ジョージア産)というのが通説だと思います。
市場ではジョージアのお惣菜屋さんみたいなものもよくあり、チャホフビリ(肉の煮込み料理)やチャシュシュリ(シチューっぽい料理)なんかよくパックで買って昼に食べてた思い出もあります。
それが現地にいた2006年、ある日突然市場からジョージアのお惣菜も消え、レストランからはジョージアワインが消えるという事態になりました。

身近に存在していたものが「手に入らなくなってしまった」という程度の話なのですが、なんとなく気にはし続けていました。

2013~2014年にはロシア南部のソチに仕事で来させていただいていました。冬季オリンピックの、日本選手サポートのための施設運営や契約周りが主な業務でした。そこで、禁輸政策がとられていたはずのジョージアワインに接待の場で再会することができました。(会いたかったよ…!)
オリンピックの業務が終わって、日本に戻ったら、ワインのことを体系的に勉強してみたいなと思うきっかけでした。

時は流れ、初めてジョージアを訪れたのは2016年のことです。そこでずっとジョージアの人に聞いてみたいと思っていたこと、「ロシアと戦争をしていて、ジョージアワインが輸出できなかったときはどうしていたの?そのときどう思ったの?」をたずねてみました。
怒りでも哀しみでもなく、また諦めとも違った淡々とした調子で「パタムー・シュタ・ヴォイナー(戦争だったからね)」と仰られたのが印象的でした。悟りに近い感じといったらいいのでしょうか。

ジョージアのワインが禁輸政策に遭っていた間も現地の人たちはワイン造りを続けていたこと、ロシアという一大市場を失って、生き残りをかけて世界市場へ販路を見出すようになったことなどを知るにつれて、ますます興味を持つようになりました。しかし当時もすでに日本でいくつかの輸入社がジョージアワインの取り扱いをしていたので、私自身が輸入をするつもりは一切ありませんでした。苦肉の策として、「ジョージアワイン・エヴァンジェリスト」という名称をひねり出して自称していたりしました。(照れもあったと思うのですが、今思い返すとエヴァンジェリストとか言ってる方がなんだかひとりよがりで恥ずかしい…)

転換点になったのはやはり(多くの人にとって、パラダイムシフトとなったように)コロナ禍でした。それまで海外の展示会や試飲会などに出展していたジョージアの生産者たちは身動きがとれなくなり、藁にも縋る思いだったのでしょう。数多くのワインメーカーがSNSを通じてアプローチしてくるようになりました。
そのような動きを見て、怪しいものであったり騙されたりするのでなければ何か協力したいと思うようになり、せめて身元の保証ができる相手かどうか相談しよう、と大使館に問い合わせたのが決定的になりました。
その頃たまたま輸出ワインの取りまとめをしてくれる現地カウンターパートのイラクリさんと運よくめぐりあえたことも幸いし、ジョージア人のワインに対するひたむきさや、実務能力が信頼に足るということがだんだんと分かってきました。
(以上のことは私が多少なりとも現地の人と意思疎通ができる言語能力があったことがベースにあり、あくまでも非常事態下にあったことが要因と考えていますので真似なさいませんよう)

ひと言でまとめると、「ロシアで仕事をしていて大変だった時期に慰められたあのワインの生産地に恩返しをしたい、あのワインを守りたい」ということになるのですが、そこに至るまでに長い経験や時間や様々な人の願いがあり、その想いをつなぐリレーのバトンを受け取ったのがたまたま私だった、という気がしています。




よろしければサポートお願いします。いただいたサポートはワイン関連書籍の購入費などに使わせていただきます!