センスを養うたったひとつの方法

俺らの生きるこの世界では「センス良く生きる」ことが至上命題みたいに扱われることがある。

SNSの発達によって、それまでありえなかった、人々にまつわる様々なもの/こと(衣食住、読んでいる本、見ている映画、交友関係etc)の可視化が起きた。

必然、その世界では選んだものの趣味が良い/悪い≒センスが良い/悪いという評価軸が以前よりも明確になった。
それはファッションやアートに限らず、生活そのもの(ライフスタイル)にも敷衍し、あらゆるものに内在する。

一見センスなどとは無縁に見えるオタクの世界のマニアックなチョイスにすらメジャー/マイナーの境界があり、そこから何を選び、何を選ばないかにもセンスは存在する。

そして「選択」だけにセンスが介在するわけではなく、次のフェイズとして選択したものをどう並べるか、つまり「編集/エディット」にもセンスがあり、その一連の結実が「センスがいい/悪い」という一言で片づけられてしまう局面を俺らはたびたび目にする。


そしてこう思う。

センスってなんだ?
センスってどうやったら良くなるんだ?


果たして俺たちはセンス良く生きなきゃいけないんだろうか?


曲がりなりにもファッションに特化したアカウントだからファッションにおけるセンスについて話そう。
と言いながら話は初めから脱線しちゃうし服のことなんてほんとにちょっとしか出てこないんだけど。


センスという言葉を耳にするたびに、夏休みの宿題のことを思い出す。


始まる前には永遠とも思えるほどのたくさんの時間、心躍る遊びの計画の数々、高鳴る胸、そして。
あのおぞましき読書感想文、自由課題。

過ぎ去った苦痛を思う。
あれらこそ「ひとにはセンスというものが生来備わっていて、その無垢な輝きは自発的に放たれるもの」だと信じて疑わない、それこそ無垢と無知が顕現化したものであり、そしてその得体のしれない「センス」とやらに突きつけられる人生最初の敗北感だったのでは、と。


毎年うんざりだった(みんなそうだったでしょ)。

なんで作文なんて書かせるんだろう?
文章の書き方すらろくに教わらないのに。

どうして研究なんてしなくちゃいけないんだろう?
科学的なものの見方も教えられず、その意義もわからないのに。

色の塗り方すらまともに知らなかった僕には、夏休みの美しい風景を紙に移しとる作業は苦痛以外のなにものでもなかったし、代えがたい思い出はそれによってある意味では汚されてしまった。

楽しかったはずの読書は、400字詰めの原稿用紙を前にその輝きをいとも簡単に失った。

あの時俺たちをおそった苛立ちと無力感。
あれはきっと、全てを「センス」で処理しなければならないと感じさせた、あの宿題たちのせい。

しかもそれらが評価されてしまうことの憂鬱さといったら。

センスの正体もわからず、センスの磨き方も知らないまま、もっと言えば「センス」という言葉を言葉としても感覚としても認識する、はるか以前の原始意識に植え付けられた呪いの種。


舞台暗転。

楽器について考える。
楽器は最も基礎的な音の出し方を1から学ぶし、既存の曲をトレースさせることそのものが学習であり目的となる。
自分で一から作曲して提出してね、なんていう宿題はまず出されない。
意図された不協和は別として、知識を下敷きにしない調性のない音符の羅列など音楽たり得ないから。
センスのままに生み出された曲が曲として成立しないことをみんな知っているから。

本当は作文も読書感想文もそうであるべきだと思わない?
言葉の使い方を学び、文の組み立て方を学び、文章の構成を学び、それらが美しくまとまった短めの文章を数多く読み、写し書く。
自分の文章を書くことなんて、それをたくさんやってからで十分でしょ?

その方法を蓄積させないままなんとなくやらせるから、できる人間とできない人間の分水嶺がセンスなんて簡単な言葉で片づけられてしまう。


「子供らしい感性や技法を知る前の純粋な表現を評価する」
そんなもっともらしい大義名分なんて欺瞞でしかない。

基礎や定型を踏まえないものなど見るに堪えないもののはずなのに、言葉やえんぴつは誰にでも扱えるから(という理由しか思いつかない)絵や作文は宿題としてやらせてしまう。

教育のせいにするのを情けなくも思うけど、自分を含めこどもが書くような絵や文章から脱却できないまま大人になるひとの、なんと多いことか。

翻ってファッションのことだ。
服もまったく同じだと思う。
身体的なハンデは除き、服を着るという行為自体には特殊な能力はいらないし、裸でいるわけにはいかないから服を着る、とうぜん毎日だ。

普段から使っている言葉と読書感想文。
毎日着ている服とスタイリング。

人の目にとまり「良い」と認識されるものが生まれるにはある程度システム化された学習が必要とされる。
どちらも普段から触れているからといって自然と洗練されたものができるわけじゃないのは誰にだってわかる。

だけどセンスという神話に知らず知らずに取り込まれてきた僕たちは、体系化された知識をベースにせず描かれた文や絵や他人の(もしくは自分の)格好を見て、ため息混じりにこう呟くのだ。

「センスないね」


幼い頃からそんな無茶振りに(当然)応えられず、自分の「センスのなさ」を突きつけられるような経験をしてきた俺たちがセンスという幻想に振り回されるのはある意味仕方のないことなんじゃないかと思う。

だから今その呪縛は解き放たれなくてはならない。

いいか。
センスなんて自然発生するものじゃない。
世の中の大多数が信じてやまない「センスのいい人間は初めからセンスがいい」だなんて嘘っぱちだ。

多くの人々にとってセンスは培うもの。
培われるものじゃない。
受動態を拒否しろ。
能動的に奪いに行け。

そこには明確な方法があり、具体的な実践があり、手に取れるような結果がある。

つまりセンスは学習可能であり、多数の人間に再現可能なものなんだ。

基礎知識を学ぶ、それを分類する、それらを組み合わせた基本型を身に付け、基本から派生する類型を知り、先達を徹底的に模倣する。
その過程で錬成されていく取捨選択の洗練化とその編集こそがセンスだ。
その過程でしか獲得されない一連の判断こそがセンスだ。

そう。
センスを養う方法はたったひとつ。

「勉強」しかない。

だからみんなが気軽に口にする「センスがない」は往々にして「単純な知識の蓄積の不足、学習の不足」だ。

センスがいい、と言われるようなひとは、必ず勉強している。
それが血のにじむような努力であれ、努力を努力とも思わずただ好きだからと追及していった結果であれ、必ず膨大なインプットとアウトプットを行っている。

そのインプット量が1でゴール(と呼ばれるものがあればだけど)に到達してしまうそれこそ「センスのいい」人間もいれば、100やってようやく到達できる人間もいる。
もしかしたらゴールまで届かず、場合によってはその70%、80%までしか届かない人だっているかもしれない。

だけどそれは仕方のないことなんだ。
勉強したからといって、誰もがみな藤井聡太のように10代で煌めくような一手が打てるわけじゃない。
努力したからといって、誰もがみなエミネムのように心を揺るがせるライムを放てるわけじゃない。

でもそれは努力しない理由にはならないし、センスが欲しいと願うなら、そこには勉強しかない。

近道はない。
地道に積み上げていった先にしか、センスはないんだと俺は思う。

先に世の中の大多数が「センスのいい人間は初めからセンスがいい」と信じてやまないと書いた。
正体のわからないものに対峙したら、たいていそんな反応になる。
だってどう扱っていいかわからないから。
先天的なものだと思った方が楽だから。
後天的に獲得できるものだって知らなかったんだから。


でも大丈夫。
あなたにもセンスは身につく。
好きなものを好きなだけに終わらせず、体系的に勉強してみよう。
きっと世界はもっと広がる。
きっとその世界をもっと好きになる。

焦る必要なんてどこにもない。
ゆっくり楽しく歩いていこうぜ。
提出先も期限もない。

だって、俺たちが今やろうとしていることは、夏休みの宿題なんかじゃないんだから。




センスについて思うことを書いてみた。

俺について言えば、初めの頃(っていつだがわかんないけど)こそ、センスがよいって思われることそのものが目標だったりした時期もあったかもしれないけど、今は他人からの評価なんてあんまり気にしなくなった。
良いと言われりゃ素直にうれしいけど、悪いと言われてもそれぞれ好みも違いますしね、と。

センス良さそうなひとってわりとそんな感じなんじゃないかな。

誰かのセンスが良くなることでその人生が豊かになったらそれはとてもいいことだよなって思う。
そしてもしセンスを養った先にあるものが、センスのいい人生を歩まなければいけないなんて呪詛からの自由だったら。



それってマジでセンスいいよな。

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