恵まれざる僕たちのためのポートレート

服を好きになった時から今まで一貫して、コレクションのランウェイに強く惹かれたことがない。

「どこどこのブランドの2003AWは最高だった」といった発言を目にしても記憶に残っているものがほとんどない。
とても一生懸命に服を追いかけていた若いころ、ファッション通信やhigh fashion、gapなども熱心に見てたけど、今思えば単に知識とスタイリングのサンプル数を蓄えることを目的として見ていたのだった。

強く惹かれない理由はただ一つ。
あれらの服がリアルではないからだ。
あなたにとってのリアルかどうかはわからないし、それは全然問題じゃない。俺にとってのリアルであればいい。

光まばゆいランウェイでは、人間の体型としては最高峰とも、ある意味では異形ともいえる端正なモデルたちが、美しいあるいは気の狂ったようなデザインの服をとてもうまく着こなしている。

あれらは俺には着られなかった。

過去形で書いたものの、今も着ることはできない。


普通以下の恵まれざるみっともない体をひきずって生きている俺にとって、コレクションピースは、指を咥えて見るか、歯ぎしりしながら見るか、もしくは罵りながら見るしかないものだった。

あれは俺にとってのリアルクローズじゃない。
いわば王族の服だ。王子様や王女様の着るものであって自分のような平民が実用に持ち込めるものじゃない。

なにも気狂いのようなデザインの服だけが非リアルクローズなのではない。
美しすぎる服も俺にとっては(つまりは世の中に少なからず存在する普通(以下の)体型のひとびとにとっても)非リアルクローズだ(それにとても高価だ)。

俺にとって永遠の非リアルクローズはエディスリマンのつくる服だ。
あの細く美しいデニムのシルエットはまさしく、選ばれし者のみが抜くことを許された聖なる大地に深々と突き刺さるエクスカリバーだった。

あれが非リアルクローズ?
まったくもってそれには賛同しかねるな。
ただのデニムじゃないか。

そういう人も多いかもしれない。

しかしあれは腿の太い人間にとってはまったく履くことのできない代物なんだ。
体脂肪が一桁になった時でさえ、俺は履くことができなかった。

コレクション、の括りの中で強いて言えばギャルソンの(多分)1997AWのmagic of biasだけは記憶に残っている。
バイアス柄が美しかったからかもしれないし、アンクル丈にロールアップしたスタイルに惹かれたからかもしれないし、ロールアップしたパンツの裏地がやけに白かったからかもしれない。
店舗で容易に見ることもできたし、何より「着ることだけは」できた(高すぎて試着しかしてないけど)。
パンツの丈をくるぶしまで折り返す=真似のできるテクニックが俺にとってリアル足り得たところも多分にある。

comme des garconやyohji yamamotoを支持する者が多いのは着るものの体型の制限が少ないこともあるのかもしれない。

そういうわけで、リアルであること(価格も含めて)は俺の中のどこかに常に優先事項として存在しているように思う。


と、鼻息荒く主張しているが、これは普通の人間が普通に洋服を買って着るのならば、結果的に自然とリアルを追求することになるため、何ら特別なことではないのだけど。

ただ、その普通の中で美しさを追い求めることが、俺にとってのファッションなんだ、という話。

普通のからだを持つ人間が試行錯誤してなんとか美しいかたちにもっていくために、自分のいまある体をトレーニングでどこまでつくりかえられるか、その過程で自分の体を知って、好みとどう擦り合わせて、どんな服を着ればいいか。それら全部が俺にとってのファッションだ。

雑誌に載るような人々やセミプロのような(服を着るのに)良いスタイルを持ったひとたちのスナップは申し訳ないけど参考にならない。彼らは何を着ても様になってしまう。それが努力の賜物であったとしてもだ。

スタイルのよくない「普通の」人間が「日々」着ているもの、これを細々とでも晒し続けることで、俺の知らない誰かの参考にきっとなる。

なぜならそれこそが俺が欲してやまなかった情報だからだ。
なければ俺がやるしかない。

SNSでの着画アップロードは俺が静かに歌い続ける鎮魂歌だ。
ディオールの細いデニムに足を入れることが出来ない悔しさに満ち満ちた魂を鎮めるための、ちいさな歌だ。

死んでしまった王女さまには捧げられたパヴァーヌがあったけど、名もなき蒼氓にはそんな歌はないもんな。

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