見出し画像

#4 歴史を知りながらまちを歩くこと


歴史の背景からまちを見てくと解像度があがり、見えてくる景色がまた変わってくるのではないだろうか?
今後宿をやっていく上で歴史を知ることは大切だと感じ、歴史を教わりながら、まち歩きをお願いしました。


ガイドをして下さる方「片岡稔さん」。
普段は、中山道鵜沼宿でボランティアガイドされてます。
足が悪い中快く引き受けてくれました。


今回のルートは学びの森→市民公園→那加商店街→新境川(しんさかいがわ)の桜並木で終わり。
まずは、KAKAMIGAHARA STANDでお茶をしながら資料を見つつ簡単にまちの歴史を教えてもらいました。

古くからこの一帯は航空事業が盛んなまち。実は那加にある航空自衛隊岐阜基地は日本で最古とも言われるほどの歴史ある。

そんな那加を歩きながら、まちの歴史を教えてもらいました。



飛行場の誕生そこから駅、大学へ

桑畑が広がる地に、大正6年飛行場がつくられた。
目的は戦闘機用。

なぜこの場所に選ばれたのか?

まずは地形
各務原の土地は耕作も何も出来ない原野。
また、持ち主はいるが入会(いりあい)という形でみなの共同所有であった為、自分のもののようでそうでないような、持ち主が曖昧な土地ということもあり売買しやすい環境でもあった。

あとはタイミングもあるだろう。
飛行場の前は大砲練習場として使われていたそうだ。
だが、大砲の性能が良くなるにつれ、飛んでいく位置が想定よりも遠くなってしまったことにより閉鎖。
その後他の使い道を探していると、その当時陸軍が飛行場の候補地を探している中、那加エリアが候補地として浮上した。
飛行場を作る条件として、土地の傾斜が少しあること、絶えず風が吹くこと、この条件を満たしていたため、那加飛行場が作られた。

2023年現在の飛行場は、主に実験などで使われている。
新しくアメリカで買った航空機をまずはここでテスト飛行、その後各地へ送られる。
この飛行場では、自衛隊で用意される全ての航空機が見れることでも有名。

日本で最古と呼ばれる場所は、大正4年埼玉県所沢に作られた飛行場だが、所沢は現在現物がないため、各務原那加が最古となる。


その後大正9年、飛行場に航空機の物資を輸送するために「JR」(駅)が誕生し、数年後「名鉄」(駅)もつくられ物資輸送が盛んとなる。

大正12年、現在の「学びの森」「市民公園」がある場所に
「岐阜大学農学部」が誕生する。


市民公園を歩いていると、大学を誘致した方の銅像がひっそりと建てられています。

本当にひっそりとだから気づきづらい。

「遠藤儀作翁」
岐阜県会議員を経たのち大正6年(1917)から那加村長として村政に携わり、県下の最高学府である岐阜高等農林学校(現在の岐阜大学)を此の地に誘致するため尽力した
「岐阜大学農学部」の跡碑


大学がなくなった後は、自然をそのまま残すことを重点とし、地形、木々など形は変えずに二つの公園が作られました。
公園には珍しく入り口を設けてないのも特徴。




もう少し市民公園を歩いているとこんなモニュメントも

1991年に埋められたタイムカプセル

宇宙浪漫祭を記念してタイムカプセルが埋められたらしい。
これを開けるのが2071年と、まだまだ先はながい。



今では住宅街の景色が昔は野球場だったり

野球場も兼ねた各務原運動場がこの一帯にあった

その昔プロ野球の公式戦も行うほどの運動場があった。
鉄道会社の名鉄が運営をしており、この一帯の客寄せをしていたという。

その後は、名鉄が手をひき各務原市が300棟もの住宅を作り、人が住み、財政も潤った。



公園から離れまちへ

商店街へとつながっていく市場の誕生「一六通り」


駅から商店街、住宅街の全体像

まちの発展となる航空業、鉄道、学校と話は進み、その発展から市場が生まれます。

まず、市場や商店街が生まれた当時の場所は「一六通り」といい、本町通りではなかった。
「一六通り」は道幅が狭く、お店と人とで肩がぶつかるほど賑わっていたそう。
食べ物、生活用品をはじめ、映画館、劇場、銭湯までもあり今でいうイオンのような人の賑わい、歩行者天国となっていた。

そんな「一六通り」は、少しずつお店が出来始め、住んでいる人たちが、まちを活性化させていきたい思いから商店街を作ろうと動きます。

まずは場づくりとして40店舗のバラックを立て、簡易な店舗を作っていく
その後、ここでお店をやりたい人たちを集っていくと、作った40もの数より倍以上の人が押し寄せた。そのこともあり1回だけの開催が、1と6の日に分けて市場を開催。
これが「一六通り」という名にもなる商店街が生まれた。

賑わっていた頃の一六通り
現在の一六通り、人が二人並んで歩ける程度の幅しかない



そして、現在は商店街となっている「本町通り」はその当時どうだったかというと、桜の季節には桜並木が非常に綺麗な住宅街だったそう。

大正時代の那加本町通り

この桜は戦争により全て物資となったという。なんとももったいない。。。


現在は和菓子屋さんや

大正9年創業老舗の和菓子屋「餅信」(もちのぶ)
この一帯で一番古いお店かもしれない。


果物屋さん

「フルーツやおきち」


少し外れるが古くからあるたばこ屋さん

コンビニエンスストアのはしり


あとは、塾、旅館、定食屋、八百屋に近いスーパーなど個人店は少ないが、商店街のようなまち並みがある。


現在のJR那加駅からすぐ見える本町通りの姿


大正時代は「一六通り」を間にして駅側に住宅街(本町通り)反対側に学生寮という一帯だったそう。

左:大正時代住宅街(本町通り)/ 現在那加商店街
真ん中:大正時代商店街(一六通り)/ 現在お店の跡地や(空家)、住宅街
右:大正時代学生寮 / 現在空家、お店、住宅など


この一帯の特徴なのか、まち、商店街を歩いていると小さなお寺や神社が少し多く点在します。

戦争後、亡くなられた方々の供養のため、個人の方が建てたもの



ほっそーーーい建物との間を抜けると

絶対知らないと見つけられないようなところにも。


この一帯の商売繁盛や、住んでいる人たちの仏神への、祈りなどのために作られたのでしょう。



桜並木を植えた歌舞伎役者

各務原出身の歌舞伎役者、市川百十郎(いちかわひゃくじゅうろう)が
新境川(しんさかいがわ)沿いに咲いている桜の苗を1200本寄付して植たという。
これも戦争により全ての物資へと回ってしまったが、その後、各務原市長により桜回廊にしようと動き出します。
市川百十郎(いちかわひゃくじゅうろう)の名共に「百十郎桜」という名でこの桜並木は作られました。

ちなみに、日本桜名所100選にも選ばれる。


新境川(しんさかいがわ)の桜並木を歩き、まち歩きは終了。



整理して、ここに記載した歴史はごく一部であり、まだまだ私の知らない歴史があると思うと、なかなか咀嚼するのが大変だなと思いました。
ただ、知らないで見みるまちの景色から、知って見る景色の違いを感じることができました。

まち歩きをしながら知れたことは、一人で資料などを読むよりももっと実感と納得が湧きました。
案内して下さいました片岡さん、快く引き受けてくださり、本当にありがとうございました。





2023年9月6日
ガイドをお願いしたのが4月という驚き
はらだれいな

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?