あの人

 こっちを向いて。そう思いながら毎日見つめていた、あの人が、どうやら昨日死んだらしい。

 昨日の晩はずいぶんと電車が混んでいたようで、私は混み始める30分ほど前に最寄駅に着いて事なきを得たが、あの人はそうではなかったようだ。いや、あの人こそが、電車の遅延理由そのもの、だったと聞く。朝の10時15分。私はあの人が死んだという駅の、構内図の看板前でぼんやりと立ち竦んでいた。今朝は確かにあの人が乗っていなかった。あの人が死んだ事実を朝礼で聞いて、それから、ここに戻って来た。線路は何事もなかったかのようにいつも通りで、血の染みひとつありはしない。次から次へと、電車があの人の死んだ上を通り過ぎていく。

 直接話したことは、結局一度もなかったように思う。あの人は私よりもずいぶんと友達が多くて、いつでも誰かと話していたから、きっと私の視線にも最期まで気付かなかっただろう。挨拶をしたらよかった、なんて考えもしなかった。挨拶をしたところで、私とあの人の間に特別な世界が拓くわけではないのだから。私とあの人は他人のままで死んだのだ。その事実だけが私の中をぐるぐると巡っていた。

 涙が出ることはなかった。薄情なものだ。看板のそばにある自販機で麦茶を買って、看板の前を通り過ぎ、固いベンチに腰掛けたところで、致命的な間違いに気付く。あの人が死んだのは行きではなく帰りだったのだから、今、私があの人を眺めていた場所では死んでいない。センチメンタルに小一時間、虚無を見詰めていた変人は、動揺を悟られないように反対側のホームへ向かったが、コンコースへ降りた途端バカバカしくなってしまい、改札から出て外に向かった。

 駅の外では、ジャマイカを演奏する外国人が愉快そうにしていた。チャカポコと謎の楽器を打ち鳴らし伸びやかに歌っている。足取り重く、行くアテもない私は、ぐるりと駅の周りを1周してから駅ナカの喫茶店へ入った。小洒落た名前のイチゴジュースを注文して、その値段に後悔しながら支払う。席に座ると、充電用のコンセントがそこにあった。そういえばあの人は教室でいつも充電して、バレる度にコンセントを抜かれていたな。そんなどうでもいいことばかりを思い出す。遠くからジャマイカが風に乗って流れて来るのが微かに聞こえた。

 高いジュースはあっという間に飲み終わってしまい、15分ほどで店を出た。駅ナカは私には縁遠い、大人の女性向けの商品ばかりが並んでいて何も面白くなかった。あの人はこういうものを、例えば好きな子や、女の先輩なんかに贈ったりしたのだろうか。付き合っていると噂の先輩と、あの人を並べて思い出す。先輩は泣いているのかな。そんな事を考えながら私は、あの人が先輩にあげたかもしれないアクセサリーを探していた。全て想像でしかない。あの人といつも一緒に遊んでいる男子や、その彼女も脳内に呼び出す。賑わった頭の中でああでもない、こうでもないと指輪を選ぶあの人の、楽しそうな横顔はもうこの世に存在しないのだ。いや、最初から存在していないかもしれないが。

 小さなガラスの石と、華奢なピンクゴールドの指輪を一つ買った私は、あの人の足取りを追っていた。きゃいきゃいと騒ぎ、どうやって呼び出そう、だの、靴箱に入れよう、だのと話しながらファーストフード店に入る。あの人は確か、と盗み聞きした会話を思い出す。今はベーコンエッグバーガーなんだよな、という声が聞こえた。ナゲットも安いんだって。クーポンあるよ。次々と注文して、クーポンをかざして会計を済ませた。今日1日でお小遣いを使い切ってしまいそうだ。トレイの上に山盛りのポテトとナゲット、大きなコーラとバーガーを乗せて席を探す。空いているのをいい事に4人席に座ると、より鮮明なイメージで会話が始まった。どうしよう。マジでぇ。あり得ないから。イケるって〜。まるで4人とも死んだみたい、と苦笑いをしながらその話を聞いていた。お腹がいっぱいになるにつれ、会話は少しずつ遠ざかっていく。ため息とゲップが交互に出始めたところで、諦めて持ち帰り用の袋をもらいに行った。考えてみたら、水分だけでもだいぶ量を飲んでいた。

 駅から出るとジャマイカは止んでいて、代わりに下手な演歌歌手が歌っていた。くねくねとマイクを軸に身体を揺らしている。あの人の友達の男子がその真似をして、彼女に頭を引っ叩かれていた。モノマネで笑ったあの人が少し気まずそうな顔をした。ふらふらと歩きながらパン屋さんに入りかけたところで、さっき食べただろ、と声が聞こえた。そうだった。足を思わず止める。すぐ後ろを歩く現実のサラリーマンがぶつかって、すみません、とお互いに謝った。大丈夫?と声を掛けてくれたあの人に、大丈夫。と応える。申し訳ない事しちゃったな、と私が言うと、気にすんなって、とあの人が笑った。はた、と気付く。私はあの人と話した事はない。どうやら妄想が行き過ぎたようだ、と反省する。時計は午後2時を指している。

 結局それからは3人のイメージは曖昧なものになっていき、湿気たポテトと、付ける予定もない指輪がカバンの中に残っていた。駅に戻って改札を通る。ホームに上がり、今度こそあの人の死んだ場所に辿り着いた。先ほど見ていた虚無と同じく、あの人が死んだ痕跡はなかった。ベンチに座って、またぼんやりと、電車があの人を轢いていくのを眺め続けた。時折吹く冷たい風に身体を震わせ、それでもそこから離れられずにいた、などとという事はなく、ぶるぶるとかじかんだ手で自販機のボタンを押し、コーンスープを買った。あち、あちと言いながらハンカチに包んでカイロの代わりにする。冷める前に飲みたいな、という気持ちと、お腹いっぱいだよ、という気持ちが交互に顔を出す。

 午後4時を過ぎた。やたら綺麗な夕焼け空が広がっている。今度は流行りの歌か何かが、エコーとノイズでじゃりじゃりと遠くから聞こえて来た。あの人が死んだのは、18時45分。死んだ時間を調べればわかるだけ、他の人の死に方よりも良いのかもしれない。人が多くなってきたな、そう小さく呟いた。缶は体温でかろうじて生温い。あの人を思い出そうとするたびに、今日想像した偽者たちが邪魔をしていたけれど、悪い心地はしなかった。私とあの人は赤の他人で、思い出のほとんどは空想。それで終わったのは、一つの決着なのかもしれない。すっかり穏やかな気持ちになった私は、あの人のそばで電車を待っていた。そういえばあの人はどうして死んだのだろう。考えたところで、私が答えを知るわけがない。自殺か事故か、ネットをいくつか調べてみたけれど、目撃証言は特に見付からなかった。自殺するような人ではないな、とぼんやりと考えて、それから、私が知らないだけかもしれない、と思い直した。話くらいなら聞けたかもしれない。ちくり、と胸が痛んだ。今更だな、と本日何度目かのため息をついた。

 18時35分。あと10分で、あの人が死ぬ。私は、今日買った指輪を鞄から取り出した。安っぽいビロウドの小さな巾着を鞄にしまい、指輪を眺める。この指輪をどうするか
、そんな事を考えていると、あの人の声がまた、脳内に響いた。
「あげる」
なんて都合のいい妄想だろうか。呆れ笑いをしながらコーンスープをあけた。中身はすっかり冷製スープになっていた。かちかちと指輪と缶がぶつかり音を立てている。通勤快速がごう、と通り過ぎて行った。
「あげるよ」
聞こえないふりをして、一気に飲み干す。コーンが何粒か残っているのを片目で確認しているうちに、開いた片目から涙がぼたぼたと流れ落ちた。
「わ、私のじゃ、ないよ」
両目から涙が止めどなく溢れた。
「この指輪は、好きな人にあげるものでしょ」

 そうだよ。どうして会話が成り立つのか。とうとう現実と区別がつかなくなってしまったのだろう、と少し怖くなるが、それよりも大きな喜びと、それすら消し飛んでしまうような、巨大な、悲しみが、ぎゅっと私を押し潰す。私はしゃっくり上げながら、指輪を薬指に通した。私の指で試しながら買ったのだ。サイズはぴったりに決まっている。見上げると時計は、18時40分を指していた。

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