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私の生い立ち・理念【ライフアレンジメント・ライティング】

想いや理念に共感し、
どうすればその人が夢を叶えられるか。
誰かの夢を共に創造したい。

こんにちは。しらすです。

ここでは初めましての方やライフアレンジメント・ライティングって何?って方に向けて、自己紹介を交えながら、この理念ができた背景をつづっていきます。

どうぞ最後までご覧ください。

ひとりが好きだと思い込んでいた学生時代

承認欲求が強かった小学生時代

小学生の頃は将来は漫画家になるんだと言って、漫画を描いて友達に読んでもらったり、修学旅行の表紙の絵を担当したり、とにかく絵を描くことに時間を使っていました。
その一方で、承認欲求が強かった私は漢字が難しい自分の名前を書くことができると自慢していました。なんとも恥ずかしいですが……

親からは「音楽をしなさい」というプレッシャーを受け、当時の習い事だったエレクトーンに時間を使う頻度がだんだんと増えていきました。

「音楽が好き!」そう言わないと親は不機嫌になるのが子どもなりにわかっていたので、無理をすることになります。

存在価値と自信をなくした中学生時代

中学に入ると部活動が始まり「上下関係」というものができました。吹奏楽部に所属してここでも音楽をすることになります。
小学生のときタメ口で話していた先輩から「敬語使って」と言われ、慣れない敬語に四苦八苦しました。あいさつもタイミングがよくわからずできなかったり、苦手な先輩にはあいさつすら怖くて探るように小さい声で言ったり。
小さい社会というものに適合するために必死でした。

そんな中、とてもやさしくしてくれた2つ上の異性の先輩がいました。私をかばってくれたり、丁寧に教えてくれたり。
気づけば私はその人のことを好きになっていました。そして先輩が部活を引退するときにラブレターを書いて渡したのです。
先輩は私が引退祝いに渡したキーホルダーを学校指定のカバンにつけていました。しかし、返事なし。
後で周りから聞くこととなるのですが、その先輩とは両想いだったそう。それならなぜ返事が返ってこないのだろう?という疑問が大きくなっていきました。
これがトラウマとなり、恋愛することを押し込めて過ごしていくこととなります。

そして中2。ある数学のテスト前の休憩時間。友達はなんだか元気がありません。あとで知ったのですが、その友達はいじめを受けていたそうです。
それを知ったとき「あの時なぜ気づいてあげられなかったのだろう?」と自分を責めました。それからというもの、自分以外の誰かが悪口を言われていると、つらくなるようになりました。
この出来事がより自分を押し殺すきっかけになったのです。

そして数か月後。私も友達と同じ人たちからいじめを受け、部活でも先輩後輩にハブられ1人で練習する日々。苦しい以外の何ものでもありませんでした。それを見かねた他のパートの人がたまに「一緒に練習しよう?」と言ってくれて、寂しさを紛らわすことができたのです。私は朝練も1人でやりまくりました。孤独と闘ったこの体験は、周りがいなくても、いや、いないからこそ一人でもがんばれるという財産を与えてくれました。それと同時に、いじめの対象が他の人でなく私でよかった。他の人が苦しくなくてよかった。と自分が犠牲になることを買って出るようになったのです。完全に認知が歪んでいました。

この時期、エレクトーンのコンクールがあり、どこにも居場所がない私は練習に没頭。ここでも「孤独」が私を助けてくれました。嫌なことを忘れるように弾き続けました。
しかし、コンクールの結果は悔しいものでした。賞はもらえなかったのです。めちゃくちゃがんばった私は大泣きしました。先生に良かったよ、と言われても何も響かず、「全力でがんばっても報われないんだ」という教訓を得るのみでした。
完璧主義だった私はこのたった1回の失敗で、全力でやることほど無謀なことはないと学ぶことになるのです。

うつ病と闘った高校時代

晴れて高校に入学。初めましての人が多い世界で私はストレスを抱え、ある病気にかかりました。病院を転々としやっとわかった症状。医者からは「治るかもしれないし、治らないかもしれない」と告げられ、絶望したことを覚えています。その病気が引き金となり、うつ病と闘うことになったのです。
病状が悪化し保健室登校となりました。夜も寝てるはずなのに、日中もずっと眠たい。単位が危うい授業だけ出るようにし、他の時間は保健室でずっと寝ていました。今思えば薬の副作用もあったので、過眠は当然の症状だったとわかります。

そんなこんなで何とか2年生に上がり、担任の先生が変わりました。するとある日、先生は「この子をお願いします」と保健室の先生に頭を下げてくれたのです。
私の中で電流が走りました。

「この人に迷惑をかけたくない」

それからというもの、私は避けていたクラスに戻るようになり、全ての授業を受けられるまでに回復。部活では演奏会の準備に明け暮れ、大変な準備も仲間と力を合わせて乗り越えました。
この時に知ります。今まで自分ひとりでやるのが好きだと思っていたけれど、少人数で同じ方向へ進むことがとても好きなんだ、と。達成感もあり、心が満たされた初めての体験でした。

そして月日は流れ受験の時期に。実は私は勉強嫌いでした。今でこそ新しいことを学ぶのは楽しいと思えますが、親が見栄を張るために自分ががんばっていました。自分のためにがんばったことは勉強でも部活でもありませんでした。

音楽が「いちばん」好きだと思い込んでいた私は、大学で音響工学を学びたいと、間違った目標を立ててしまうのです。

この時にどういうことが本当に好きだったのかは覚えていません。それほど心を閉ざしてしまったのです。建築には興味を持ちましたが、それも友達に流されているだけだと感じました。

そして受験勉強も大詰め。私はわからない問題を毎日のように先生に聞きにいきました。勉強なんて大嫌い。でも先生に会ってなんだか安心できるからがんばろう。そう思いました。

結局親のために決めた志望校には不合格で(無意識に落ちろと思っていました)、後期試験に臨みます。

ある日「毎日先生にわからない問題を聞きに行っている」と親に言うと、「毎日聞きに行ってそんなん先生に迷惑や」と怒られたのです。
私は迷惑をかけているのかと思うと、自分の頭の悪さに絶望しました。
先生に聞きにいった帰りには毎回涙を流し、一人勉強をする日々。

親からの多大なプレッシャーや嫌味には耐えられず、とうとう後期試験の2日前、高校に連絡し先生に3時間話を聞いてもらうことになるのです。
「毎日聞きに行って迷惑でしたか?」と私が先生に問うと、
「毎回同じ内容を質問には来てなかったし、迷惑じゃないよ」
と言ってくれました。
それ以外、何を話したのかは覚えていませんが、その電話が私をストレスから解放してくれるきっかけになりました。

後期試験はのびのびと楽しく受験できて無事合格。

「やっと一人暮らしができる!」「大っ嫌いな親から離れられる!」と思い、うれしかったのを覚えています。

輝いた大学時代

大学生になり親元から離れられたことは私にとって大きな出来事でした。
自分の人生のコントロール感が手に入ったのです。

何かサークルに入ろう。
マネージャー希望でトランポリン競技部に行ってみるか。

この選択が私の運命を大きく変えました。



マネージャー希望だったので、実際にトランポリンを跳ぶことは考えていませんでした。
しかし、先輩に「跳びなよ!」と言われ、当時も流されやすい性格から、なんとなくトランポリンに乗りました。

そして、ちょっとジャンプしてみました。
すると、衝撃が走ったのです。

「何これ、楽しい、、!」

私はトランポリンの虜になり、選手での入部を決意しました。

高校までまともに運動をやったことのない私が、いきなり身体への負荷が高いトランポリンをやり始めます。

当然、周りより進みが遅く回転技もみんなが挑戦する中、
「お前はまだだめだ」
と先生に言われ、我慢の時期が続きます。

私は会話が苦手で声も小さく低いので、入部当初は先生や先輩方に
「こいつ大丈夫か?」
と思われていたようです。
後々笑い話として話題に上がるほど、私は変わることになります。

毎日コツコツ長期休暇も帰省はほとんどせずに練習に打ち込みました。

すると、先輩も「いつできるようになったの?」と疑問を持つくらい技が進んでいったのです。1年生の頃から地元のジュニアチームにもお邪魔をし、週4~5回練習に励みました。周りが辞めていく中、私は必死に先輩に近づけるよう慣れない筋トレもやり、嫌いなランニングをすることもありました。

そして2年生の秋、部長に任命されました。
最初10人いた同期はこの時にはすでに3人になっており、先輩とコミュニケーション取れるからと、私が選ばれたのだそうです。

回転技もできるようになっていましたが、いちばん下手くそだった私は隙を見せないように怖いオーラをまとうことになります。

部長というのは思っていた以上に孤独で、先生・先輩と後輩の間に挟まれたり、外部のチームと自分たちのチームの間に入ったり、とにかく頭を下げることが多かったのです。大会では「今日から3日間、よろしくお願いいたします」と言って、他のクラブの先生方にあいさつ回りをしたことをよく覚えています。

そして怖いオーラは同期にも話しかけづらいと言われるほどのオーラだったのです。後輩が怖がるのも緊張するのも無理はありません。

そんな風にして、大会運営にも携わりながら幹部引継ぎの時期に差し掛かります。

ここで先生にこう言われるのです。

「もう一年、部長をやってくれないか。」

まじか。後輩だって7人くらいいるのに、なぜ私なのか。
前代未聞の出来事です。これまで約50年の歴史の中で、後輩がいるのに2年連続で部長をやった人はいなかったのです。

結局「それはおかしい」ということになり、後輩に引き継ぐのですが、心配なあまり私が口を出し過ぎたせいで、新部長とはギスギスしてしまいます。

それから、私はがんばって口を出さないようにし、見守る立場に身を置く決心をしました。そうすると、新部長も徐々に部長の大変さを理解してくれて、関係はよくなり、笑い話にできるまでになりました。

そして

「しらすさんがいるから、
この部は成り立っている」

こんな言葉を後輩からもらうようになりました。

私は周りに影響を及ぼす力はないと思っていたので、驚きました。
私の背中を見て動いてくれる後輩もいました。
頼ってくれる人も増えました。

こうして、4年生になり、だんだんと私の怖いオーラは消え、みんなとても仲良くしてくれたのです。
「あぁ、なんて幸せなんだ」
先生、先輩、後輩、他チームの先生、選手。私は本当に恵まれいると気づきました。

そして迎えた夏のある日。最後のインカレ。
4年間の集大成としてコンディションもそこそこ。
公式練習の1時間半前にアミノバイタルを飲んでアップをし身体を整え、いざ練習。
緊張であまりうまくいきません。それでも絶対10個の技を連続でこなしてやるんだという気持ちから、どんどん集中力は上がっていきました。

そして本番。「がんば!」の声が会場に響きます。いつもならプレッシャーに感じていた「がんば!」。しかしゾーンに入っていた私は初めて客観的に自分を見ることができ、応援を力に変えることができました。

しかし結果は9本で中断。基礎練の甘さがここで出てしまいます。ここで賞をもらえないことが決定。後で決勝にいけないことも判明し、悔しさで号泣しました。他校の選手が慰めてくれたり、先生も心配してくれたり。
とにもかくにもずっと向き合ってくれた先生に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。情けなさや後悔。いろんな感情が巡りました。

でも私はここで賞がとれなかったのをバネに、大学院生になってもトランポリンで新技に挑戦していきました。

研究や授業で忙しくなっても週1,2回は練習に行って、大会にもでました。
大学院生で出た大会は全て中断することなく10本跳べました。本番へ向かうときのメンタルの持っていき方を学び、それが自分に合っていたのです。
会場を見渡して天井の四つ角を探して距離を測ったり、大の字になって寝ころび、「私は今緊張していて、心臓がバクバク言っているなあ」と状態を受け入れることで、無駄な緊張が取れ、いい精神状態で本番に臨む準備ができていました。
当時読んだ本はこれです。

メンタルを自己管理できる方法が書かれており、今でもこの本には感謝しています。

そして大学院2年。この年はいろいろと初めての体験をしました。

就活しながらシルクドソレイユを観に行ったり。3つの学会に挑戦したり、アメリカに3週間短期留学したり、グアムで銃を打ったりと、勉強もしたけど遊びにも行ったり充実しすぎな一年でした。

そしてもちろんトランポリンも続けていたのです。
練習に行く頻度が減ったので、技の難易度は下げました。
しかし、以前できた技ができなくなった自分を認められませんでした。

この時、為末大さんの本と出会います。

これを読んで、大会では難易度の低いクラスで出場するなど当時の実力を認めることができました。
諦めるのも一種のスキルなんだと思うことができたのです。
逃げているのではなく、自分が戦える場所に移動するだけ。
その勇気をくれた本でした。

そして引退試合でも、決勝にはいけなかったものの、ほぼ自己ベストで終えることができ、これが今の私なんだなと噛みしめることができました。

独りぼっちだった社会人

楽しくて仕方なかった半年

わたしはあるメーカーに入社しました。扱っている製品で大学院での研究を生かせそうなものがあったので、興味を持ちました。

しかし入社後。本来3か月あるはずの研修がなく、10日で現場に配属されます。1本プロジェクトが走っていたのですが、それが忙しすぎるからということでした。
そして何よりその部署は約15~20年ぶりに女性を採用したそうで、周りからは腫物に触るような扱いを受け、同期はOJTのような形で仕事をしていたのに、私だけ「独りぼっち」。
独りで黙々と作業ができるものの、ほったらかしにされ、気付けば困難に直面したときに泣いている自分がいたのです。
「どうせ自分の味方なんていない」
その思いが強化されていきました。

ストレス発散の道具として扱われる

ストレス発散の道具ってどういうこと?って思いますよね。

私は1年目の秋から2年目の春までの半年間、いじめを受けていました。

失敗したら何人にも笑われ、すきま時間での勉強も「仕事中に本読んでるしw」とバカにされ(それを言った人はいろんな本を仕事中に読んでいましたが)、他の部署の人も巻き込んで悪口を言われるようになりました。

唯一信頼できそうな人も口が軽く、他の人に私自身の病気のことを言いふらしていました。しかも笑顔で。

当時走っていたプロジェクトは軌道に乗らず「上手くいかないよ」という雰囲気で行われており、みんなストレスが溜まっていました。
そこに私が跳び込んできたのです。男性ばかりの職場で目立たないわけがありません。
ストレスが上手く発散できないからと、周りに精神的に攻撃されていました。

そうしてまた我慢の日々が続きます。無視されるよりはまだまし。認知が歪んでいた私は、毎日必死に耐えながら仕事に行きます。メンタルが弱いからだと思っていた私は、本を読むことに必死になりました。
当時読んだ本は以下のとおりです。

これらを読んで実践して、自力でいじめからの精神的なストレスを解消していきました。目の前が明るくなったことを今でも覚えています。しかし独りぼっちであることには変わりありませんでした。

転職活動をしてみるも、転職すること自体に恐怖があり、結局転職できず終わります。

そして、いじめが始まってから誰にも相談せず半年が過ぎました。そうすると、いじめの首謀者が転職するというのです。
私はやっと解放される、そう思っていました。しかし、その人が去ってからも悪口を言う人は後を絶ちません。私は仕事に打ち込み、苦しさから逃げていました。

お客様が必要としてくれているのなら。

そんな想いがあったおかげで、しんどい時期も乗り越えていけるようになりました。

社長が上司に?!

会社は立て直すどころか売り上げが上がらず、親会社から次期社長がやってきます。
社長が交代して売り上げは右肩上がり。社内の雰囲気もどんどんよくなっていきます。
しかし、次年度。社長が私のいる課の課長になったのです。
私はスキルがなく、頭も悪かったので、自分はいつかクビになるんじゃないかとヒヤヒヤしながら仕事をしていました。

そうすると、私はいつの間にか体調を崩し、精神疾患にかかります。

「もう、耐えられない」

私の心が静かにつぶやきました。
そして私は病院へ行き、休職を決意。
長い療養期間が始まります。

闘病生活

またもや私は闘病生活を送ります。
ベッドから起き上がれず、ご飯を一食食べるのに必死。お風呂も入れず身だしなみを気にしない。
生きるのに精いっぱいでした。
しかし高校時代にうつ病を経験していたので、消えたいと思うことは少なかったです。生きていくんだという諦めない強さが私を生き延びさせてくれました。

薬もなかなか合わず、しんどい日々が続きます。
それでもなんとか這い上がろうと本を読んで回復させようとしたこともあります。当時読んでいたのはこの本です。

私の病気にも効果があるというACT(Acceptance Commitment Therapy)。
ずっと読むのを避けていたこの本が私を助けてくれました。
自分のことや思考を客観的に見ることができるようになり、歪んだ考え方から解放されました。

同時に薬の調整も上手くいき、体調が安定するようになったのです。

そしていよいよ仕事復帰。
部署を変更してもらい、まずは時短勤務での出社でした。
出社ってこんなにストレスがかかるんだ。やっていけるかな。
そうやって不安になります。
この時点では「仕事=嫌なもの」という認識でおり、周りの人たちも同様の考えでした。
なので、嫌なことをやらされているという感覚が常にあり、仕事はつまらないものだと割り切るしかありませんでした。

勤務時間が長くなると、ストレスは倍増。
それに耐えられずまた2か月の休職に入りました。

また復帰するも、なかなか思うように勤務時間を延ばせません。
いわゆる「普通の」8時間勤務ができない私はダメな人間なんじゃないか。
全然頑張れていないからだ。
そう思っていました。

周りに合わせるのに必死になり、自分の本音は置いてけぼり。
「つらいことを克服しないと」と自分のキャパを超えるようにがんばり続ける日々。
そして誰の役に立っているのかわからないルーティン作業。
好奇心旺盛な私にはまさに苦行でした。
私には才能がないから、いつも同じ仕事を任されてレベルアップできないんだと思い込んでいました。

メンターさんとの出会い

最初だけやさしいビジネスコミュニティ

私は1年ちょっと前、私はあるビジネスコミュニティに入会。期限なしで50万円という金額でした。
メンターさんとはそりが合わなそうと思いながらも「ここで入会しなきゃ人生が終わる」と思い視野が狭くなり、言いくるめられてしまいます。
のちにこの決断が運命を変える一歩になるのですが、このときはただただ稼がないといけないと思っていました。

クーリングオフの期間が切れる前まではとてもとても丁寧で、1か月ほどは疑問も感じませんでした。ちゃんと教えてくれるんだと思った私はまんまとその罠にはまります。それが相手の手口だったのです。

セミナーに行けば何かの宗教かのごとく、洗脳されるようでした。
その時完全に脳内がバグっていたので、「私が間違っているんだ」と思い込み、自分を責めます。
Twitterでも1日に100リプはしないとダメと言われ現実的にはできない数字を目の前に出され苦しい毎日が続きます。

2か月ほど経つと、メンターさんはその上の師匠の前だけではいい顔をし、次のステップに進みたいと言えば面倒くさそうに溜息をついたのです。

「もう無理だ。人間関係が大きなストレスになっている。やめよう。」

そうして私はその1か月後、フェードアウトしました。

しかし、このときぬんさんという人を知りました。どうやらめちゃくちゃビジネスで稼いでいる人らしくコミュニティ内では有名だったのです。

言語化を通して自分を知った1か月半

路頭に迷っていた頃、ある方から別のビジネスコミュニティを勧められます。そこは言語化やストーリーを通じてビジネスを学んでいこうという場所でした。私は面白そうと思い、入会することに。
そこではカリキュラムがありました。毎日日報を出してふみさんという方からフィードバックを受け、自分自身と見つめ合うきっかけをくれました。
個別で相談にも乗ってもらい、インナーチャイルドセラピーを行っていただきました。
ふみさんのフィードバックはやさしさの中に厳しさもあり、さらに的確に言い当てられていたので、心にささることばかりでした。自分と向き合うってこういうことかと実感した出来事でした。

ふみさんや仲間に出会えて私は本当に幸せでした。1年経った今もつながりがあります。いつか直接会いたいです。

カリキュラムがすべて終わったのは入会から1か月半後。別のグループに移動し、そこでTwitter運用を学ぶことになります。しかし、セミナーでは初歩中の初歩しか教えてもらえなかったり、個別相談も月1回。あまり活気がなく、日報にも書くことはありませんでした。

つまらない日々が続いてグループの改善も見られない中、ある人と電話することになります。

生い立ちの言語化

この時私はカウンセリング、コーチング、Twitterの運用方法の3つを提供している人と出会います。私と同じあるコミュニティに入っており、お互い不満を感じたとき、ちょうど電話しようということになり、話してみました。
私はどうにか稼げるようになりたいと思い、コンサルを受けることにしました。

まずカウンセリングでは生い立ちを書き出すことで自分の人生を振り返り、自分がどのような人間かを知ることができました。
でも、過去のことを許せなったり、自分をありのまま受け入れられなかったり、課題は山積み。
まだまだ情緒不安定で相手に依存してしまう気質があり、迷惑をばかりかけました。
しかし真正面から向き合ってくれるメンターさんは、私を否定せず受け止めてくれて安心感を得ました。
私が被害者的なポジションに立っても直球のボールを投げてくれて、本気で面倒を見てくれました。ありがとう。

この時に、橋本翔太(はもしょう)さんのYouTubeチャンネルを教えていただきました。自分に当てはまることが多く、何度も何度も動画を見返し、自分と向き合っていきました。この動画を何回も見て自分を知っていく作業が私を変化させてくれた、ひとつのきっかけになりました。




休職をしてお金が減ってきた私は
「お金を稼がなきゃ」
そう思っていました。
そして私はまた別のコミュニティに所属します。
無料相談を2回受け、3か月だけ入会することを決めます。

そうです。最初のコミュニティで知った、ぬんさんのコミュニティです。

いつか直接教えてもらいたいと思いながら、チャンスを掴めなかったのですが、ちょうどTwitterの無料相談を実施することを知り、応募します。

相談での私は
「稼ぎ方を教えてください!!!」
という気持ちが全面に出ていたそう(笑)

それだけお金のことしか考えられなくなっていたのです。なんと哀れな……。

ぬんさんのコンサルはまず自己理解から始まります。自分のネガティブな過去は思い出せるのですが、光が当たっていたときのことが思い出せませんでした。常に人生どん底にいる感覚が強く、ポジティブな時期なんてない。そう思い込んでいました。

コンサルを受ける中で、ぬんさんは私を引き上げてくれました。光の部分を探してもらい、自分でもなんとなく認識できるようになっていったのです。

グループコンサルでも発言をしたり、ぬんさんが考えてくださった企画をしたり、今までの自分では考えられないことに挑戦していました。緊張の連続でしたが、コミュニティに所属している方たちはあたたかく見守ってくれました。

そうして3か月後。コンサルを引き続き受けるかどうか迷うことになります。
ぬんさんは幸せになるお金の使い方をしてほしい、と鷹平(ようへい)さんを紹介してくださったのです。
鷹平さんはセッションの中でマイナスからゼロへと導くスペシャリストです。
私は半年のセッションを受けることを決め、ぬんさんと鷹平さんのお二人にセッションをお願いする形となりました。

人生の分岐点

セッションを通して

鷹平さんと初めて会ったとき、私はとても緊張していました。
気を遣いすぎて話せなかったり、なかなか話のテンポを掴めずにいました。
この時の自分はまれに見るくらい落ちていたそうです。それでも私は
「幸せになりたいです」
と言ったそうで(実は覚えていません)、手を離してはダメだと思ってくれていたようです。

鷹平さんとぬんさんは今後のことなどお二人で相談してくださいました。
お二人とは話せば話すほど話しやすくなり、今では本当に心の支えになってくれています。
1年以上前、最初のビジネスコミュニティに入っていなかったら知り合うことがなかったであろうお二人。
行動を続けた結果、出会うことができました。
本当に感謝しかないです。





そうしてセッションを受けながら仕事もして、体調が整っていた頃。
社会人4年目の春。社員旅行がありました。
その時ふと気づいたのです。
「このまま一生、周りに合わせて心にもないことを口に出し誰かの機嫌を取り続けるのか?それってしんどくない?」と。
周りに気を遣い、話したくもないことを話し、いじられ、何が楽しいんだろうと思ったのです。


ライフアレンジメント

ライフ+フラワーアレンジメント=ライフアレンジメント
ここにどういう意味を付けたかというと、
「お花をアレンジするように、自分の人生も彩ろう」
です。

自分の人生を生きている人ってどのくらいいらっしゃるのでしょうか。
特に日本は少ないように感じます。
まだまだ長時間労働が良しとされる風潮は残っていますし、正社員であることに意味があるなど、働き方の多様性はまだまだ認められている段階のように思います。

私も会社員時代は、やりたくもなく誰の役に立っているのかがわからない仕事を任されていました。
当時の部署に配属され1年半たった頃、とうとうこの仕事は無理だと悟り、退職を決意しました。
「私はフルタイムで働くことはできない」
その言葉が頭をよぎったのです。

この頃、私の理念である、ライフアレンジメントという言葉が天から降りてきたのです。
会社を辞めて、自分の進む道を自分で決めるんだと覚悟したからかもしれません。

まずは自分が自分の人生を彩らなくてはいけないと就職活動をし、やりたかったライターとお花屋さんの両方の仕事ができることになりました。

そして今、ライフアレンジメントを掲げながら発信活動を行ったり、電子書籍の執筆代行をしています。

そしていずれコーチングやコンサルもやってみたいなと思います。
生きづらい状態からフラットの状態までになれたことで、今度は私が生きづらさを抱えている人を救いたいのです。
恩は回していきたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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