言語化が得意 という罠
毎日noteが書きたいくらい、頭の中に言葉が溜まります。
それを出し続けるのは私の仕事のようなものです。
「言語化がうまいね」
noteを書くようになってから、時々そんなことを言われることがあり、嬉しいなと思います。
言語化できる人にずっと憧れてきたところがあるので。
ただ声が大きいだけではなく、
言葉の引き出しが多くて、誰もが納得する表現を生み出せる人。
文の組み立てが上手くて、絶妙なバランス感のある意見が言える人。
軽はずみな批判や揚げ足取りを寄せ付けない、
口を開けば、みんながシンとなって注目する、「この人の話は聞きたい」と思える人。
そういう感じの人に、なんとなく羨望を抱いていたんだと思います。
昔の私は、なんだかよく分からない「爆発しそう」感を抱えながら、必死にみんなと足並み揃えようと生きるしかなかったので。
1人になることをやっと自分に許したら、自然と言語化力が発達して、膿を出せて呼吸が楽になった気がしました。
だけど最近は、それだけが私を助けるとは限らないなとも思えてきました。
むしろ、「言語化」にとらわれてはいけないなと。
まず、
言語化がうまい=考えが深い
わけではないので、
私は私ほど言語化を行わない人たちより「考え」が深いというわけでは決してないな、と思っています。
「思考」の深さはあると思うんです。
語彙や文章の組み立て方法の引き出しが多いと、その分理論や表現の複雑化ができます。
でもだからといって「考え」そのものが複雑かというと、必ずしもそうとは言えないんじゃないかなと思うのです。
言語化する・しないに限らず、人の頭の中に「考え」そのものは存在していると思うからです。
「いや、そんなの見当たらないよ」みたいに思う人もいると思うのですが、言語化できない・しようとしない場合、それは無意識の領域にあるのではないかと思います。
そういう潜在意識下にある「考え」って、言語という形をしていないはずなんです。
頭の中で言葉になるというルートを通らずに、そのまま行動として出力されるのではないでしょうか。
(もしかしたら音楽や絵などという形で出るのかもしれません。)
そういう場合、必ずしも「考え」が「思考」になる必要ってないですよね。
というか、そういう場面って本当に日常にたくさんあると思います。
なんか、
「今日の朝ごはんは外はカリッと中はジュワッとなハニーバター餅食べちゃお~」
ってわざわざ脳内で言語化しないで、頭の中がカリッとジュワッとしながら手が勝手に餅を焼き始めるじゃないですか。
でも例えば仕事を決める時とかだと、あれこれ言葉にして考えますよね。
給料がどうとか条件がどうとか自分がどんな成長できるか貢献できるかとか…
どんなに頭の中の言語化されていないイメージが素晴らしく、“まさにこれだ!”とピンとくるようなものだったとしても、そうは簡単に決められないような固いことってありますよね。
外部に説明できなきゃいけない(と一般的に思われてる)ことが多いです。
大人になるにつれてそういうことがどんどん増えていって、
いつの間にか、「言語化できることが全て」みたいになっていったようにも思います。
しかし言語化できるということには、落とし穴があります。
それは、言語化されていないことを無いものとしてしまいがちになることです。
あるはずなのに、見落としてしまうんです。
理由の一つとしては、言語化すること自体がエネルギーを消耗することだからだと思います。
時間をかけて言語化できた時、達成感が沸いて、嬉しくて、そこだけにフォーカスしてしまいがちになるんです。
激むずなジグソーパズル組み終わったあとって、しばらくニヤニヤして何分かぼうっと見つめちゃうじゃないですか。
これ、私が作ったんだぞ…!って。
それで疲れていると他を見る余裕もなくなりますよね。
他の理由としては、
私たちは言語で伝達し合うという特殊な動物なので、
その外向的な面だけにとらわれると、まるで言語化したものだけが本物、みたいになってしまからだと思います。
自分の中の他者(外部)に、認めてもらえた気がするんですよね。それで初めて自分にOKが出せる。
でもそれって人間には外向性しかない(内部世界は認めない)って思ってるのと同じことではないかと思います。
本当は自分(内部)に認めてもらえてるだけで、十分なんですよね。
(自分なので、「認める」という選択肢しか本来は無いはずなんですが)
最近の私は、毎日何千文字も何万文字も言語化しながら、滑稽なことにこの言語化力の危険性についても考えてるような感じです。
たぶんなんですけど、言語化しちゃいけない領域ってあるんではないかなと思っています。
メンタルヘルスにおいて、「無意識の意識化」ってとても大事であることは大前提なんですが、
かといって何でもかんでも意識化、言語化すればいいものではないのかなと思います。
そんなことしたら精神が崩壊しちゃうのでは?みたいなことも思います。
それは言語化が中途半端だからだ、極めれば悟りに行き着く!
みたいな考え方ももしかしたらあるかもしれませんが
言語化できないことは、言語化できないままの方がいい場合もあるのかなと私は思います。
それぐらい、私は潜在意識、無意識の領域を神聖視しているところがあります。
それってもはや自分が操作できる範疇にはないと思うからです。
そこを無闇に触ろうとせず、適度に距離を置くのが、意識化している私が示せる、無意識領域への敬意になるのかなと思います。
逆に敬意がないと、なんか荒っぽい、本質ではないような、外界の目を誤魔化すようなものばっかり出てくるんじゃないでしょうか。
むちゃくちゃ単純なプロンプトで出力したAIイラストみたいな。
INFJさんの話になりますけど、内向直観って結構そういうものなのかなと思います。
意識などしていない時だけなぜか素晴らしいひらめきが起こり、
わざわざ使おうと意識すれば、がらくたのような、なんか惜しいものを掴まされる…。
無意識がそういう性質であることになんとなく直観で気がついているから、
(根拠は言語化しないでおきます)
適度に距離置こうかな、というスタンスを取ることにしています。
私にできることは、私の無意識の領域が健康に働くように、栄養を送り届けてあげることくらいなのかなと思います。
体をしっかり休ませるとか、
嬉しいことするとか、楽しいことするとか。
自分を大切にするとか、
ぼぉーっとする時間を作るとか。
…なんて、思いっきり言語化してしまった夜でした。
あー、言語化したぞー!という達成感があります。
しばらくはニヤニヤとこの記事を見続けてしまうんでしょうね。
しかし頭の端にまだカリッとジュワッとハニーバター餅がジュワジュワしていることにも気づいています。
試しに今日はそっちを採用してみるのもいいかな(寝なさい)。
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