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東出を観る3『聖の青春』

1.東出と羽生(はぶ)

 よくよく思えば「演技が上手い」とはどういう状態を指すのかよくわからない。たとえば、東出昌大の演技を上手い下手で評するのは至難の業だ。東出の演技は東出の演技でしかない。「あの演技は上手い」とかではなく「あの演技は東出」としか言えないじゃないか。そう思いながら『聖の青春』を観ていたら、「え、上手くね?」とカジュアルな言葉遣いが口をついて出ていた。

 今作の東出はまさかの羽生善治役。はいはいはいなるほどね〜。たしかに東出のあの異様な存在感の発露先として「羽生善治」はうってつけだ。東出はじっさいに将棋も好きらしいし、時系列さえぶちこわせば、もはや羽生善治は東出が造形した架空のキャラクターである、とも言える。それほどのハマりっぷりに「え、上手くね?」と思ってしまったのだった。

 もちろん「演技が上手い」ことと「実在の人物のものまねが上手い」ことはべつの話だが、すくなくとも『聖の青春』において、わたしたちは東出の演技に一定の技巧を認めざるを得ない。

2.東出と演技(はぶ)

 本作のタイトルは「聖と善治の青春」でも成立すると思う。もちろんメインは聖(松山ケンイチ演じる天才棋士、村山聖)で、彼の短すぎた青春における唯一無二の存在として、東出演じる羽生善治がいる形で、つまり東出は「助演」である。その役割をこなす東出に対して抱いた「え、上手くね?」というカジュアルな感想は、作品を観るに従って、多少重々しい言い回しになるが、「え、なんか、上手くね? あれ? あれれ、うまい上手い上手いうめうめ~。なにこれうめ〜」という変遷をたどる。

 劇中で東出羽生は「(思考の海に)あまりに深くもぐりすぎて、帰ってこられなくなるんじゃないかと怖くなる」そして「あなた(聖)とならもっといける気がする」と言う。ここには物語上の村山聖と羽生善治の関係性と、「主演」「助演」の信頼関係が二重に映っている。東出と羽生善治の境界が溶けた瞬間である。機は熟した。胸を張って言おう。

 東出は演技がうまい。

 ただ、それは「ものまねが上手い」的な意味ではなく、どこまでも「異様さ」で語るべきことではある。というのも、そもそも、ある人がべつの誰かを演じること自体が異様かつおもしろいふるまいであり、東出はそのことを「なぜか羽生善治のまねが上手い」というわけのわからない手段で指摘したのだから。われわれが観ているのは決して羽生善治本人ではなく、羽生善治を演じている「東出」に過ぎない。しかしそれこそが、映画が羽生善治を描くいちばん効果的な手段なのだ。

 むろんここに広がるのは異様な理解に基づく異様な景色である。つくづく映画ってみんなで異様なことをしてるな〜。「大人が集まってなにをしてるんだ? ああ、映画か」というような、つねにだれか怒られる一歩手前にあるような時間。それが映画ではないだろうか。それならば、ここまできたらせっかくだしもっといろいろやってけばいいじゃん、とわたしは思う。そう思わないか。なあ、東出。


『聖の青春』(2016年、森義隆)

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