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差別は極悪人の専売特許ではない

先日、ある場所で「こんな差別的なことを言う奴は境界知能だ」という発言を見た。一行で矛盾しているのに気づかないのか、と思ったが、この発言を問題視している人は周りにはだれもいなかった。

この発言をした人はそれほど差別的な人ではない。上記の発言は差別そのものだと思うが、これを言った当人はネットで問題発言を繰り返す一団を批判している人で、どちらかといえば「正義」側の人だ。そういう人でも、平気でお前は境界知能だろうとか、アスペなんだろうとかレッテルを貼る。頭がよかろうが、定型発達者だろうが、いくらでも差別はするという事実は目に入らないようだ。

どうしてみんな、差別は「自分ではない誰か」がすることだと思っているのだろう。差別は極悪人のすることである。自分は極悪人ではない。だから自分が差別することなどありえない、という三段論法が脳内で成立しているのだろうか。だがこの「差別は極悪人のすること」という認識がそもそも事実に反する。敵対者に境界知能だの発達障害だのとレッテルを貼っていたあの人も、別に極悪人ではない。レッテルを貼られた側からはそう見えるかもしれないけれども。

差別をする人間は〇〇という属性を持つ者だ、とレッテルを貼るとき、その人には「差別など他人事だ」という認識がある。〇〇という人間だけが差別をする、と切断処理すれば、自分は一切反省せずにすむし、痛い思いもしなくていいのだ。だが本当に差別とは特別な人間だけがすることなのか。私にはどうしてもそう思えない。

過去をふりかえれば、同性愛者をバカにするテレビ番組などありふれていたはずだ。そうした番組を見て、私も笑っていた。女性の影がなく、ちょっと変わった話し方をする高校教師を見て、生徒たちはあいつはコレだろう、と唇の脇に手を立てささやき合っていた。リベラルな校風の高校で、トップレベルの成績を取っている生徒ですらそうだったのだ。

差別は極悪人の専売特許だと思っている人は、差別を指摘されても絶対に謝らないだろう。どうしてこの「善良」な私が差別なんてするんだ?ネット右翼でもQアノンでもトランスヘイターでもないこの私が?と彼ら彼女らは思うかもしれない。ついでに言うと、「差別発言をするのは境界知能」と言い放った彼もネット右翼やQアノンを馬鹿にする側の人だった。それならもう認めるしかないだろう。すべての人は放っておいたら差別をしてしまうのだと。

ふだんは「正義」側にいる人が差別的なことを言うのはなにも珍しいことではない。自分が悪と見なした相手を批判するうち、論争はヒートアップして、やがて対人論証へと展開していく。こいつがこんなおかしなことを言うのは人間性に問題があるからだ、となる。そのおかしな人格はどのように育まれたのか。障害ゆえにそうなる、と考えるならストレートに障害者差別だし、環境に原因を求めるなら同じ環境に生きる人をまとめて蔑視することになる。私は地方に住んでいるが、「差別を理解できない田舎者」といった表現をする「正義の人」を何人も見ている。

「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」

夏目漱石『こゝろ』

この人間観に立たない限り、人は自分の差別に気づけないし、改めることもできない。ある人が善良であることは、その人が差別をしないことを保障してくれないのだ。差別を止めるのは性格などではなく知識だ。なにが差別に当たるか知らなければ、差別をなくしようがない。

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