絶対にしてはいけない「頭の悪い」話し方

こういう刺激的なタイトルをつけるのもいかがなものかと思ったが、しかし、これが一番伝わりやすいと判断してこうすることにした。

1+1が難しい

日常生活において用いているからといって日本語が上手に使えているとは限らない。これは比喩が上手いとかそういうレベルの話ではなく、そもそも人は「1+1=2」レベルの計算に相当するような日本語会話でも意外とちゃんとすることができない。生活においてそうだということは、仕事などにおいてもそうだということになる。

成功談を真似しても同じように成功できるとは限らないと言われるが、一方、失敗談については知っておけばその失敗については潰すことができる可能性が高まる。ということで今回は「頭のいい」話し方ではなく、「頭の悪い」話し方について取り上げる。

とはいえ、実は「頭のいい話し方」もあり、しかもそれは(論理的に当然かもしれないが)頭の悪い話し方と対応をなしているので、ちょっとだけ取り上げる。

頭のいい3つの話し方、そしてその反対

頭のいい話し方というのは、結果としてはいくつかバリエーションがあると思うが、煎じ詰めて言えば、聞かれたことに的確以上の内容で答えるということである。別にそれ以上でなくても十分よい。十分以上を出そうと思うなら、①ふつうは知らない知識を出す②同じことをより簡潔に言う③その結論のさらなる先を述べる、というのが具体的な仕草だ。

頭の悪い話し方というのはちょうどこの①〜③の失敗といえる。話に答えず関係ない知識を披露する、同じことを無意味により冗長に言う、間違った結論の先の話を展開する。などである。

このとき、これらの失敗には共通の特徴があって、それは「相手の質問に答えていない」「直接的な文脈を無視している(連想ゲームをしている)」ということがそれだ。

1+1=2レベルの話が難しいということを再び取り上げていえば、「1+1は?」と聞かれて、「でも掛け算の方がめんどいよね」と答えてきたり、あるいは「恒等式って反対にして計算すると簡単じゃないですか」と答えてくるような感じである。意味がわからない。なんで「2」と答えないのか。百歩譲っても「3」とか「わからない」とかだろう。

「1+1」は一般に簡単すぎるからイメージがわかないかもしれないが、難しい問題の場合、頭がショートして、混乱したり誤魔化したくなったりすることはある。たとえば「ある4次元時空の中で、テンソル場 Tμνが次のように与えられているときに以下の問題を解いて」と言われたら、そもそも何を言われているかわからなくて戸惑う人が大多数だろう。重要なことは、それでも「頭の悪い」回答をしないことは可能で、それはすぐに「わからない」と答えることである。何ならこれは頭のいい回答だとすら言える。

現実には「1+1」がわからないことはあまりにもやばすぎるので、このレベルの問題が解けないことは別次元の話になってくるが、しかし、「1+1」だったらわかりやすいだけで、先程述べたようなコミュニケーションにおける「頭の悪さ」を発揮してくる人は異常に多い。そして、時には自分すらも相手に対してそう振る舞っているかもしれない可能性を恐れた方がよい。

話が長いことは危険なこと

これは意外と学歴の有無や立場の高低に関係がない(がアカデミシャンはちゃんとしている人が多い気がする)。どんな人でもこのようなことをしてくることはありえる。こんな優秀な人でもそうなのか、と思うこともあり、そういうときは大変な気持ちになるのだが、それを見分ける秘訣は「話の長さ」である。話が長い人は基本的に危険だと思ってよい。ただし、話が長くても問題ない人がいる。それは最終的に話が戻ってくる人である。そして優れた人は、自分が意図して少し遠回りをしていることを最初に宣言してくれたり、あるいはそもそも結論を最初に述べてくれていたりする。話がおかしい人は、それをせずにどんどんと違う目的地へ向かって話を続けていく。そしてそれがどの目的地なのかこちらにはわからない。

なんで答えてくれないの…

話を戻すが、「1+1=2ですか?」のような問いが出たときに、「頭が悪い」返事をされるのは本当に困るので、だから「頭が悪い」なんていう言葉を使って攻撃的に扱わなければならないところがある。なぜかというと、「はい」「いいえ」「わからない」「答えたくない」の四種類しかプロトコル上の回答はないはずだから、ここで「というか天気が曇りだといろいろと難しいから」みたいな反応が来るとこちらはバグってしまうのである。二重にバグる。内容も意味不明だし、選択肢を選ばないのも意味不明なのである。選択肢を選ばないというのはかなり危険なことで、相当なバカであるか、こちらと話をしたくないというメタメッセージを送っているかということになり、どちらにしても危険である。そして、こういう人たちのほとんどは「確実にどれかであるはずだから、お願いだから選択肢から選んでほしい(はいかいいえで答えてほしい)。結果はいずれでも大丈夫だから」とまで念押ししても答えてくれない。なぜ答えてくれないかも本当にわからない。

もっともわかりやすいのは「はい・いいえ」などのクローズドクエスチョンを挟んで行われるコミュニケーションだ。それに答えてくれないのは明らかにおかしいと認識できるだろう。この場合の「答えてくれない」は、たとえば「はぐらかした」などは含まない。それは「はぐらかした」とわかるから「答えたくない」のバリエーションとして処理できる。そうじゃなくてマジで文脈をほぼ壊して関係のない文章を繋いでくる人がめちゃくちゃ多いのである。オープンクエスチョンの場合はなんとなく話が通じてしまうためこれが見えなくなる。日常生活にははい・いいえで問い詰めなくてもいいシーンが多いので、実は問題がある内容でもなんとなく会話を持続できる。

頭がいい人の「察しがいい」やりとり

頭がいい人、もしくは「察しがいい人」は、「はい・いいえ」をショートカットできる。たとえば「明日晴れるかな?」と聞かれて「明日は近くの映画館に行こう」と答えたとすれば、文章だけ見ればおかしいのだが、文脈が形成されている可能性があるわけだ。相手は(明日いっしょに出かけたいけどもしかしたら雨が降るかもしれないから、それだったら外では遊べないかもだしそもそも面倒だって思うかもしれないよね…)という趣旨で発言をしていたとして、それを察した対応者としては「(雨だとしても一緒にはでかけたいから、それだったら大変じゃなくてかつ屋内の施設がいいから)明日は近くの映画館に行こう」と答えたので、話が早くてよいのである。重要なことは、相手は「明日どこに行こうか?」と聞いたわけではないということだ。「明日どこに行こうか?」「映画館」であれば普通の会話だが、そうでない文脈が圧縮されかつ流れとして成立しているからこれは「頭のいい」「察しのいい」会話なのである。一方で(洗濯物がたまっているけど今日忙しくてできたら明日に回したいな)と思っているときの「明日晴れるかな?」は、明日にしたいとか、代わりに洗濯をしてほしい、というような趣旨の質問であるから、そこで「映画館に行こう」と答えたら「???」ということになる。もちろん文面では文脈がないからいかような可能性もあるが、現実にはそうではない。だというのにこのタイプの「頭の悪い」応酬がマジでめちゃくちゃ存在するのである。

自分がわかっていないことに気づけない危険

次の困難は「はい・いいえ」には答えてくれるのだが、そのあとの質問を続けていくと実は「はい・いいえ」の趣旨を理解しておらず、実質的にただ「はい・いいえ」をオウム返ししただけ、というパターンである。これは短期的に「はい・いいえ」のどちらかで答えてくれ、というオーダーを満たしてくれているだけにタチがわるいのだが、そこで「はい」と答えたらこういうことを意味するという合意が欠落しているので、めちゃくちゃ危険である。

こういう話者とのコミュニケーションは本当に「わかっている」側が疲れる。なぜなら「それってこういうこと?」「そういうことだとしたら、こういうことになると思うけど、その場合はさ」などと、折りたたまれている文脈を開示説明してあげる必要があるからである。逆に間違った返事をしている側は自信満々で、「この認識であっていますか?」と聞き返すべきところを大方せずに済ませてくる。最悪なのは、「あなたのその説明はこういう言い方になっているから、それはこの質問に対応していないんだよ」と説明してあげたのに「あなたはそう思うんですね」などと言ってくる場合である。これが最悪なのは、単純に質問者回答者のベクトル上の問題もあるし、自分は正しいという傲慢さがあるからでもあるが、何より、相手は説明を補足しているのに自分は説明を割愛していて、そのくせ分断しているからである。説明責任を果たしていない。もし自分がこういう話し方をしていると思う節があったら、絶対に要注意である。それを繰り返していたら、関係がなくなる日も近いだろう。






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