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遠い山並みの向こうには

 朝、外へ出てみると、今日も山里は朝もやに包まれている。もやは田畑から湧き上がり、山の中腹に漂っている。まるで小さな子どもが、レースのカーテンでかくれんぼしているように、山々はぼんやりと見え隠れしている。手前の杉山は、影絵のように山の輪郭だけを浮き立たせている。ときどきモミの木が杉山の影絵からツンと飛び出して大きな腕を広げている。遠い山並みの向こうには、さらに山が続いているのかと勘違いするほど、なめらかな雲が偽の山並みを描いている。そして雲の際がほのかに紅色に染まっている。陽が昇るのだ。

 最近は少し妙だ。上を仰ぐと、山々の木、ひとつひとつが愛しくてたまらない。うつむくと、地面から出てくる草花や虫たちが愛しくてたまらない。デイサービスの高齢者とお話ししていると、こうして一日一日生きている姿にジーンときてしまう。保育園の子どもたちは、なんでも興味を持ってからんでくるので、ぴょんぴょんしているところをぎゅっと抱きしめたくなる。このような環境に長年恵まれてきたせいだろうか。年を取ったせいなのだろうか。

 10年前の原発事故の後は、ひどく心が揺れ動いた。それでも、ここに残っている草木や動物、人々と寄り添いたいと思った。ここで子どもたちと生きていきたいと思った。あの時もう一つの選択をしていたら、今、私にはこんなに幸せな日々はなかっただろう。そう思うと、ますます何もかもが愛しくなる。
 自然も人々も、平和で幸福にここに存在し、命を全うできるように。そんなお手伝いがひとつできれば、私はそれで幸せなんだろうと思う。