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日本という国の始まり その3(国生み)

またしばらくおさぼりでした。
 
日本人は、偉い人が決めたことを覆すのは良くないという考え方を持っているような気がします。また、一度決めたことは守り抜くという美しい一面も災いして、悪法も訂正することなく惰性で続けてゆくのが特徴だと言えます。つらつら考察するに、古くを尋ねると仁徳天皇のせいでもあります。いくら人民が飢えているからといって、長期に減税する事など、あり得ないことです。が、やったのです。それ以来、日本人、草草は、お上の言う事さえ聞いておれば明日は明るいと考えるようになったのです。と、半分ジョークのような世界が日本史なのです。

 さてそれはさておき、日本古代史が今も喧々諤々、歴史家や考古学者は好き勝手なことを言っており、一点に終息するどころか、益々広がっているのが現状でしょう。言論の自由で、良いことでもありますが、日本史を考察する上で、混乱の原因でもあります。

 口はばったいですが、古代史の混乱の遠因は、本居宣長先生が作っています。正確に言えば、本居宣長門下や後に続く国学者が師匠の説の踏襲に血眼になり、真の歴史からますます離れてしまったと言ってよいでしょう。本居先生は、”現時点で一番正しい解を見つけたつもりではあるが、自分の説は必ずしも正しくは無いであろう。後世の研究家が間違いを正してくれる事を期待する。”という類の事を書いておられます。本当に偉い方なんだと思います。ですが、後に続く学者の方々がいけません。
 例えば、未だに新井白石が書いた”古史通或問”を金科玉条の如く信奉し、”伊都国は糸島市”が合理的だとしてこれを根拠に上げる、博物館長さんまでおいでます。

 話しは飛びます。古事記上巻には、どうやって国が出来ていったのか・・・つまり、国生み神話があります。この文章(古事記本体ではなく、本居説です)を俯瞰すると、とても不自然だという思うのです。

本居宣長の古事記の解釈

 どこが不自然かと言えば、淡路の次が四国であるにも関わらず三番目が隠岐である点です。四番五番六番は北部九州・壱岐・対馬と並んでいます。ところが、七番目に佐渡島へと飛ぶのです。絵を見てわかるように、吹き出しの線が、まるでスパゲティのように絡みに絡んでいます。図としては、美しくないのです。このような歴史の説、美を絡めて語るのはけしからんという方もおいでるでしょう。
 しかし、余談となりますが、我ら物理系の者は、真実は美しいと考えます。E=MC^2などはシンプルで美しい式として有名です。と、まあ、ジョークはさておき・・・、私は以下のように考えます。

 国生みは大和朝廷以前(大國主神の国譲り以前の歴史)から神武東征して国の形が出来上がる途中を示したものです。古事記が実にリアルな書物だと解釈できれば、国生みは伊弉諾尊と伊射奈美がセックスして土地を産んだ話ではなく、人すなわち村を形成していった歴史であると考えられます。
 国(村、あるいは都邑)は高天原の人々が開拓したのではなく、海洋民であった国津神つまり大國主神ファミリーや彼らの祖先が海外進出した歴史的結果です。サイゼリアの出店ルールと同じで、できる限りアメーバー的に広げる必要があります。その方が合理的・経済的だというのは誰しも異論は無いと思います。(歴史にはたまに例外もありますが・・・)つまり、国の成立は連続性のある場所を繋いだものだと結論します。
 すると、このような図が見えてきます。

真理は常にシンプルで美しい

 まず、佐度嶋は佐渡島ではなく、巨済島です。根拠としては、中国正史に朝鮮半島南端部は日本であると明記されている点です。魏志倭人伝にいう狗邪韓国があったのも、朝鮮半島南端部です。それは、倭の北岸(日本領の北端)であったのです。大地名は為政者の一声でコロコロ変わりますが、小字地名は千年以上劣化することなく続きます。これを頭に入れて検証すると、巨済島には”サド”ないし”サドン”地名のなんと多い事。しかも、DNA的にY染色体ハプロタイプD1a2a分布(一部未検証)と古事記国生みを比較検証すれば、納得(1から6まで)。その延長線上を考えれば、巨済が佐度であってなんら違和感がありません。(現在の巨済島民は北方民族の流入でDNAでの検証は不可能だと思います。) 

 そして、三番目の三つ子島です。本居先生の説だと隠岐ですが、私は四国と九州の間に浮かぶ三つ重ねの島だと理解します。すると、野忽那群島が候補に挙がります。(これは、確固たるエビデンスがあるわけではありません)太古の愛媛の中心地は、松山では無く越智郡(現今治)や風早郡です。これは遺跡からも、国府からも推測できます。また、式内社は合わせて9座で松山市の四座(論社含めると5座)を越えています。この愛媛の中心エリアから九州へ行くあるいは、瀬戸内海を通過するルート上に関所のように浮かぶ島が野忽那群島です。しかも、この島は沖と言うにふさわしく海岸からアバウト10km離れているのです。
 漁村民感覚の私から言えば、100mでは沖と言えず、50kmでは沖とは表現しがたいのです。沖は5kmから20km程度でなくてはなりません。
 また、野忽那群島の中島・睦月島・野忽那島は地形もからんで風早郡からみると重なって三つ子に見えるのです。また、汐の流れも速いこのエリアを押さえれば、軍事的・経済的にすこぶる優位にたてるはずです。その上、この島は古い歴史があり、それなりな考古資料も堀りだされています。

風早の郷から見た野忽那群島、沖に浮かぶ三つ子に見える

 こうしてみると、二番目の図の1から7までは連綿と繋がり領土拡大の歴史としては極自然に捉えることができます。そして、8番です。もともと高天原は太陽信仰であり、東にユートピアが存在するという思想があります。仏教とは真逆の方向です。本居説では宮崎から船出して奈良に入ったことになっています。しかし、神武天皇は大和朝廷の祖であることを考えると、古事記上巻や中巻の記述に整合しません。日本書紀にしても、日向は第十二代・景行天皇の時代に宮崎県を日向と呼ぶことにしたとあります。つまり、神武天皇の時代の日向は宮崎県以外にあったという事です。よって、神武天皇は宮崎県から船出したことにはなりません。第一、宮崎県の場合、式内社の数が少なすぎます、たったの四座しかないのです。式内社は10世紀であるとは言え、大和朝廷が重要視している社です。仮に、神武天皇の船出した日向が宮崎とすれば、式内社がもっと多く存在してもよいはずです。

 蛇足になりますが、宮崎県の式内社で二宮に、”都万(つま)神社”があります。読み替えれば、”とまん神社”です。トマと聞けば日本古代史に精通している方なら「投馬(とうま)国」を連想するでしょう。魏志倭人伝にいう、日本の中にあっては大国で五万戸を擁していました。おおよそ25万都市なのです。都万神社の所在地は、日本最大級・西都原古墳群の前にあります。大和朝廷の祖とは異なる連合国の首都が見えてきませんか?

耳川と一瀬川

魏志倭人伝を読むと投馬国の支配者は”彌彌”(みみ)とあります。また、太古の日本では、天忍穗耳命というふうに偉大な大王には耳(みみ)という美称が付きます。耳川はまさに、九州東部の豪族の王の支配地域から流れる川を意味すると考えていいでしょう。耳川河口のすぐ南には宮崎一之宮都農もあります。西都市を流れる一瀬川の源流は耳川源流近くにも被るエリアです。

 話しを元に戻しましょう。このように、古事記上巻・中巻を取り上げても、歴代国学者の唱えてきた説には無理が多いのです。歴史を正すことも我々現代人のつとめだと言えます。しかし、踏襲にこだわっているようにしか思えません。幕末の偉人、本居内遠門下きっての秀才・池辺真榛の声は現代に反映されていません。真榛先生の言わんとすることの半分でも理解できれば、上記にある事柄はすんなり腹に落ちることでしょう。

今回は、このあたりで・・・機会があればこの話の続きも書こうかと思います。

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