生きているというより生かされているという事に気づいたら感謝しかない件

何だか、ラノベのタイトルみたくなってしまった。

ここ最近、芸能人の「自殺」が相次いでいる。
悲しいな、なんで死を選んじゃうんだろうな。と、昔の自分なら思ってたと思う。いまも、場合によっては思う。
芸能人たちの「自殺」が、真実かどうかは置いておいて、いま一度、自殺について考えてみたい。

念のため先に書いておくが、以下は妄想である。

人は、自分の意志に関係なく、生み落とされる。
気が付いたら生きていた、という状況。
よく考えたらシュールである。
生み落とされてから、やりたいことを選択できるようになる。
生まれない、という選択肢は、そもそも与えられていない。ハズ。
そして、わたしは、死んでしまってから、いわゆる閻魔様(なのかは分からないけれど、何らかのジャッジ機関)によるジャッジメントタイムが行われると、信じている。
そこで「あなた、ここで、なぜこれを選択したの?」とか、「ここでこう思ったのなんで?」とか、「これが課題だったのに、出来高6割でしたね~」とか、言われるのだ。想像すると、実にコミカルでシュールである。

さて、生きている時は、何らかの課題を課せられている。
もちろん、課題は人によって違う。
この人にはこれが当たり前にできて、この人には難しい、なんてのは、ザラにある。当たり前にできる人にとっては、それが乗り越えるべき課題ではないのだから、できて当然なのだ。おそらく過去の人生でクリアしたのだろう、何も威張るようなことじゃない。クリアしてる課題でマウント取るようなら、むしろ恥ずべきことなのである。
そう考えると、人の多様性が理解できる。
困ってるコト単位で人が集まるのも、当然な訳だ。同じ課題を出された者同士が、みんなで知恵を出し合ってクリアしようとしてる訳だから。

では、自殺の何が問題なのだろうか。何か問題なのだろうか?
自殺は、救いを求めてする人もいるだろうが、自暴自棄も多い。
そもそも、本来は、死ぬことで解決することなどない。だって死んだ後はジャッジメントタイムが来る訳だから。更に、死には痛みを伴うので、程度の高いドM人間でも死を恐れるように出来ている。ハズである。

いま、この世を生きていると、神様やら守護霊やら、何かしら目に見えないものの力を、強く感じてる人が多いと思う。
わたし達は、神様に生かされているという感謝の気持ちを忘れがちだ。
わたし達が、この世に生まれ落ちた時の設定は、神様が与えて下さったものであり、であれば、それを受け入れ、自分の課題を粛々とこなすだけなのだ。
…と、わたしは思っている。
スピリチュアル系の本を読んだ事がない、わたしの純粋な思いである。

そう考えると、自殺は、神様と自分が相談して設定した乗り越えるべき課題を投げ出して戻ってきてしまう、ということになる。
あぁ、確かにそれならダメだな。たまに投げ出してしまいたくなる時があるけれど、やっぱりダメだ。アホらしい、こんな世界で頑張って何になるの、とか思っちゃう時あるけれど。いけないいけない。

事故や怪我、病気は、それが起きる事で、過去の人生からの因縁が消化された、という見方があるらしい。
これは納得してしまったので、採用することにする。
ということは、例えば他殺された場合や虐待された場合なんかは、それを過去世で行ってた場合があるという事だ。
もし、やってしまったのなら、甘受しなければならないだろうな。
むしろ、それを経験することによって清算できるなら、ある面では、良いのではないだろうか。
人生で何かを悩んでる人がいたとしても、それが必要だから起きていると考えたら、気が楽になるし、前向きに頑張ろう、自分はもう二度としない、人に優しくしよう、などと考えるようになるかもしれない。それは決して無駄な事ではないハズだ。

けっきょく、何が起きても、それを恨みに思うか、前向きに捉えるかは、人それぞれなんだな。
だったら、わたしはやっぱり、人に感謝して、生かされている事に感謝して、悪い事が起きたら友人たちと突っ込みながら、楽しく生きていきたい、と思った。
ひとつひとつ、課題を乗り越えながら。

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