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お茶を作る


                                                                                澤 なほ子          
 

   庭の隅にお茶の木が一本ある。十一月に白い五弁の花を下向きにひっそりと咲かせ、濃い緑の葉をかじかませたような姿で冬を乗り越える。三月に入ると新芽が出始め、四月の上旬にはみずみずしい葉を輝かせる。
   この葉を摘むと、直径三十センチほどの笊がいっぱいになる。去年まではこれで煎茶を作っていた。葉を洗って さっと蒸す。蒸した茶葉を、ホットプレートを使って煎る。煎った熱い葉を揉んで 、またホットプレートに戻す。この“煎ると揉む”を十回あまり、焦げないようにホット プレートの温度に細かく注意をはらいながら 繰り返す。すると、すっかり葉の水分が飛んで、手からお茶がすべり落ちるようになる。そして、緑色は深く、艶が出る。出来上がるまでに、ゆうに二時間はかる。
   出来上がったお茶を「また春が巡ってきたなあ」と感慨にふけりながら飲む。至福のひとときではある。しかし、その量は片手に乗るほどしかない。二回急須に入れて飲めばおしまいになってしまう。
   
   今年も茶の木はいつもの春と変わりなく美しい芽を吹いた。しかし、わたしは昨年までのように「さあ、お茶を作るぞ」という気持ちになれなかった。「面倒だな」という気持ちが先に立つ。
「歳だもの、面倒なことは省略」と自分に言い訳をしてみる。でも、日に日に伸びていく若葉を目にして、それを無駄にするのが茶の木に済まないような気がしてきた。
   そこで、よく晴れた日にわたしは重い腰を上げた。
   思えば、東京の大森にあった実家の生垣は茶の木だった。わたしが中学生の昭和三十年頃まで、母はその葉を摘んで、コンロに練炭の火をおこし、ほうろくという素焼きの浅い鍋で汗まみれになりながら茶を作っていた。一握りの茶を作るのではない。大きめの茶筒二本分はあった。しかも、六月には二番茶も作る。きっとそのお茶は美味で、労力は大変なものだっただろう。当時のわたしは、茶の味も、母の苦労もわからず、ただ、母が茶を作った日は家中香ばしい香りがして、それが嬉しかった。
   実家の前の路地に消防自動車が入れるように、ということで、茶の木は抜かれブロックの塀になって、母のお茶作りは終わった。ちょうどその頃には戦後の食糧難も落ち着いて、茶葉はいくらでも買えるようになっていた。
   造園業兼農家の夫の実家では、戦前から野菜畑の縁や植木畑にたくさん茶の木を植えていたそうだ。義父と兄嫁は力を合わせて、昭和四十年頃まで大家族の自家消費のためにお茶を作っていた。その量は角形のブリキの一斗缶に一杯になるほどだったと、わたしは兄嫁から聞いている。 
 その義父が、我が家の庭にこの茶の木を植えてくれた。そして、ほうろくの代わりにホットプレートで茶を作る方法を教えてくれたのは兄嫁だ。共にとっくに亡くなっている。

   さて、わたしは黄緑に萌えている茶の木の前に座り、一芯三葉を心がけながら丁寧に摘む。時期がいつもより遅かったので、葉は大きくなっているし、少し硬い。収穫量はいつも使っている笊からこぼれるほどあった。
   ところで、一芯三葉という言葉を知ったのは、富山市に居たときで三十年ほど前になる。 ママ友が広い茶畑の所有者で、製茶工場も持っていた。茶葉を摘むシーズンになると十人ほどのアルバイトを雇った。わたしもそこに加えてもらって、茶摘みの体験をしたことがある。薄靄が立ち上る緑の丘で、雉の鳴き声を聞きながらの作業は気持ちのいいものだった。茶畑の丘には今では老人ホームが建っている。静岡や鹿児島の大規模なお茶の生産にはとても対抗できない、と彼女は語っていた。

   わたしは摘んだ葉を洗いながら、さて、どうしようかと考えてしまう。撚りの効いた茶葉を作れるとは思えなかった。ぐずぐずしていたのを後悔する。
   いつもの作業に取り掛かる決心がつかないまま、一休みしようと思ってテレビをつけた。その画面には、ちょうどお茶の会社のCMが写っていた。若い女の人が青空の下で、ペットボトルのお茶をごくごくラッパ飲みして、にっこり笑っている。
   それを見ながら、わたしはお茶を作る方法を一か八か変えてみようと、思いついた。まず鍋に二リットルほどの湯を沸かし、火を止めた。そこに茶の葉を全部投入し、鍋の蓋をして十分間ほど待った。蓋を取ると淡い琥珀色の茶ができていた。
   飲んでみる。思わず「おいしいじゃない」と口をついて出た。煎茶のようなコクや渋みはないが、香りの爽やかなお茶ができた。
   空のペットボトルにできたお茶を詰めた。冷蔵庫にストックして、一週間このお茶を楽しんだ。

 ところで、来年は!? たぶん、わたしは今年と同じ方法で茶を作るだろう。簡単だもの。簡単が一番! 
   でも、「それでいいのかなぁ」と、心の底で思う。手間暇かけて作ったお茶は いただき物の上等な新茶と比べたら不揃いで見た目は悪い。でも、香りと旨さは負けていない。その味を失うことになる。それに、失うのは味だけではないような気がする。


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