「渋谷系」とは何だったのか? 〜都市論と現代POPS史から読み解く〜 part.5

6 渋谷を取り巻く音楽文化 〜1970年代渋谷〜


1960年代の新宿から1970年代の渋谷へ。文化的・音楽的な視点から見てもその変化が現れており、本章では牧村憲一・藤井丈司・柴那典著の「渋谷音楽図鑑」を参考に進めていく。

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まず1969年寺山修司が天井桟敷の拠点を渋谷に作ったことが挙げられる。また1969年、後の公園通りに小劇場「渋谷ジァン・ジァン」がオープンし、小室等や吉田拓郎などのフォークシンガーが出演して満員の客を集めるようになっていった。また西武流通グループの仕掛けによって次々と劇場がオープンされていき文化的にも魅力的な街になっていった。

1970年代の音楽はフォークミュージックが少数派からより広く世の中に浸透していく契機となった時代であり、その当時フォークシーンで一番勢いがあったのは吉田拓郎であった。

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吉田拓郎

1971年、吉田はエレックレコードからオリジナルアルバム「人間なんて」をリリースする。このアルバムのディレクターに迎えられたのがザ・フォーク・クルセダーズを経てソロとして活動していた加藤和彦であった。このアルバムは吉田の人気を決定付けた一枚となり、同時に一つの実験作でもあった。1971年の11月は、はっぴいえんどが「風街ろまん」をリリースした月であり、日本語ロック戦争を巻き起すなど指示と評価を高めていった。

また「人間なんて」のプロデュースを加藤とともに手掛けた木田高介は自身のバンド・六文銭にて洋楽の影響をいち早く取り入れ、同時に日本語の詩情を持った歌を追求していった。牧村は六文銭のメンバーが技術集団であったことと上記のような洋楽の影響を取り入れた曲作りをしていたことから、日本のポップス史において重要な影響を与えたと述べている。

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六文銭

 1960年代の新宿はジャズ喫茶のメッカであったが、1970年代に入り渋谷の百軒店にも全盛期には7~8店のジャズ喫茶が存在した。その中でも1971年にオープンしたBYGはジャズ喫茶としてオープンしたものの次第にはっぴいえんどやはちみつばいなどのロックバンドが出演するようになり、当時の渋谷では珍しいロックバンドが生演奏するライブハウスとなっていった。また1966年にヤマハの直営店としてオープンしたヤマハ渋谷店も、音楽情報の発信地として渋谷の音楽文化形成に大きな影響を与えた。


1972年にはっぴいえんどは事実上の解散状態となり、1974年メンバーの大滝詠一は自主レーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立する。同年、1970年台前半において多くのミュージシャンのコンサート企画を行っていた「風都市」は倒産し所属していた長門芳郎はテイクワンという新しい事務所を立ち上げる。テイクワンの所属アーティストは山下洋輔トリオとシュガー・ベイブの2組であった。1975年、シュガー・ベイブはデビュー・アルバム「SONGS」をリリースするが、当初の売上数は2000枚ほどであり結局発売元のエレックレコードは倒産してしまう。今では日本のポップス史上、最も輝くアルバムとされるこの一枚も話題となっていたのは都内の一部であったという。

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シュガーベイブ SONGS

1976年1月シュガー・ベイブは突如として解散するが、メンバーの山下達郎・大貫妙子はその後も日本の音楽シーンにとって大切な役割を果たしてきた。8月、渋谷の宮益坂にあったRVCレコードのスタジオにて山下達郎はデビュー・アルバム「サーカス・タウン」の録音を行った。RVCレコードは1975年にできた新しい会社であったが、そこには古い血と新しい血が混じり合うような社風があったという。藤圭子などの歌謡曲を歌うアーティストが所属する一方、吉田美奈子や山下達郎など新しいアーティストもデビューしていったのである。また大貫・山下は坂本龍一と出会い初期のアルバムには欠かせない存在となっていった。

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宮益坂を上った先には青山学院大学があり、日本のポピュラー音楽に影響を与えた多くのミュージシャン・作曲家が輩出された。日本で最も多くのヒット曲を生み出した作曲家の一人である筒美京平もその一人である。彼は青学を卒業すると日本グラモフォンに就職し、洋楽担当のディレクターとなった。その影響から誰よりも早く洋楽ポップスを取り入れ、それを下敷きに数々のヒット曲を生み出してきた。

青山学院の高等部を卒業したミュージシャンとして有名なのは、ムッシュかまやつである。ムッシュはジャズ・カントリーそしてロカビリーと同時代の流行の洋楽を常に追いかけている人物であり、それらに触発されスパイダーズの音楽性に反映させた。また渋谷系を語る上で外せないピチカート・ファイブのベーシスト、小西康陽も同大学のサークル仲間とバンドを結成したことが音楽人生の始まりであった。こうした日本のポップス史を象徴する才能が青学から多く生まれていた。

しかしながら、1980年代に入ると日本の音楽シーンは1970年代の疾走感と裏腹に疲弊感が生まれ始めていた。1980年頃日本の音楽シーンに革命をもたらしたYMOは1983年に散開を発表。大滝詠一も1984年に「EACH TIME」を製作している時舞台を去ることを決断する。同じ頃に竹内まりあも活動休止を発表するなど急激な時代の変化が訪れた。

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