「渋谷系」とは何だったのか? 〜都市論と現代POPS史から読み解く〜 part.4

5  PARCOを中心とした文化的革命 ~1970年代渋谷~

前章では1960年代の新宿について記載したが、1973年のオイルショックあたりを機に、新宿にいた若者のエネルギーは急速に落ち始める。その頃新宿の西口では巨大なオフィスビルを抱えた「新都心」としての開発が行われており、東口ではアングラ文化の拠点となった凮月堂も閉店している。そうした中、1970年代において東京の盛り場が新宿から渋谷に移行したと吉見は著書「都市のドラマトゥルギー」で論じている。ようやく渋谷系のスタート地点に突入だ。

渋谷は1970年になってから急速に出現した場所ではない。道玄坂上に発展した三業地や青山学院大学・実践女子学園等の開発を背景に震災前より発展していたが、震災後には東横線・井の頭線等の開通によって、盛り場として急速に発展を遂げた。しかし、戦後になると一時期闇市で栄えたものの昭和30年代には停滞気味となる。

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昭和12年の宮益坂(http://www.touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku07.html より引用)

都市社会学者の磯村英一は昭和29年に新宿と渋谷を比較調査する中で、渋谷という盛り場は「渋谷・世田谷・目黒などの大世帯の共同炊事場」という性格を指摘しており、また渋谷の地形的特質も1960年代の渋谷の停滞をもたらしたと述べる。その一方で1970年代の発展の基盤ともなっていった。

磯村英一氏

渋谷は原宿・青山・代官山等の高級住宅地を背にしたファッションの先進地帯に隣接していくことになり、それらが構成する多極的構造の中で内部の磁場を変容させていった。とりわけ1964年に行われた東京オリンピックの際に建てられたオリンピック競技場や1960年中頃から建てられた渋谷公会堂、NHK放送センター等の諸施設は、起伏の富んだ地形を生かしながら公園通り界隈を原宿と連結させ、大きな転換点となった。

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NHK放送センター

そして1970年代の渋谷の発展にとって重要なのが西武資本系「PARCO」の渋谷進出である。PARCOが区役所通り(現公園通り)に誕生したのは1973年。それまでは東横・西武百貨店を中心に駅前拠点型だった渋谷の街に、PARCOを中継点とすることで駅から公園通りそして原宿へと向かうルートが作りだされた。またその近辺に中小ビル群が誕生したことにより公園通りは回遊性を備えるようにもなった。朝日新聞社が1973年と1979年に行った渋谷を歩いている人の調査では、渋谷を歩く人の数が増大しているとともにその中心が道玄坂界隈から公園通り界隈に移行している。

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渋谷パルコ(1970年頃)

こうして1970年代の渋谷は公園通り周辺を中心としながら、急速に台頭していった。吉見は著書で盛り場の特徴を挙げる時に「〇〇的なるもの」と表現していたが、ここでは「渋谷的なるもの」についても論じている。

まず、第1の特徴として若者が公園通り界隈で「ブラつく」ようになっていったと述べる。前述した1929年に於ける磯村の調査では、人々の平均滞留時間が男は7分、女は14分と銀座、新宿と比べて短いとしていたが、1979年の朝日新聞社の調査によれば渋谷での平均滞留時間は240分であるとしている。また来街目的もウインドウショッピングが公園通り周辺では大きな割合を占めている。

また第2の特徴として上げられるのが、若者たちはペアないしグループで行動していることが多い点である。かつては若者が単身でやってきて、そこで巨大な群れを形成する場所であったが、1970年に入ると街は小郡化した若者がやってきて相互の差異を確認する場所へと変質した。

そして、第3の特徴として渋谷という街が「見る・見られる」場であることを指摘する。公園通り界隈の仕掛け人であるPARCOはこの街をファッション環境とした。ファッション環境とは、自分の存在を主張していく環境とし、ファッションが一種の演出とすれば、公園通りは舞台であり、主演は「私」であるとした。こうして「渋谷的なるもの」の演出が行われていったが、PARCO文化の詳細についてなどは後ほど論じていきたいと思う。

こうして吉見は1960年代の新宿から1970年代の渋谷に盛り場の移行があったと述べているが、この移行は1920-30年代の移行と大きく関係があるとする。まず新宿は東京西郊のターミナルとして存在し、駅周辺には闇市時代以来の飲み屋文化が形成されていた。そうした中で1920年代の浅草同様、上京した若者の避難所的性格を持つようになった。またアングラ文化に代表された新宿を舞台にした人びとの濃密なコミュニケーションを可能にしたのは一種の共同性の交換を呼んだからである。こうした交換が可能だったのは出郷者たちの体の中に根付いている共同性の感覚が「家郷」のイメージとして新宿という場所によって共有されたからであると述べる。一方、渋谷は1930年代の銀座と同様「モダン」なあるいは「現代的」な消費生活やスタイルを身につけたと都会人たちが闊歩する街であるとし、先送りされる「未来」として存在したと論じた。

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