雑記。価値観に潜む攻撃性と危うさ

最近
気づいてしまったのだけど


自分の中に
倫理の体系が一つしかない

いや
だからこそ
強固で自分の選択を支えるだけの
基盤になりえるとは
言えるのだけど

なんて言えばいいんだろう
私はそこに
原理主義者みたいな
危うさを
最近感じてる

私のソレは実際のところ
すごくシンプルで
極論
「慈愛の無い人はこの世から消えてくれる?」
なんだけど

うん
割と過激だよね

大丈夫
本当に極論だから
実際の温度感は
「少しは目の前の相手を見て」ぐらいだから
そこは心配しないで欲しいのだけど

なんかこれまでは
別にさしてそれが問題とも
思わなかったのだけれど

考えてみると
時折
私が早まった言動をしてしまうのって
そこに抵触したときの
反応の鋭さだなって

これまでの人生を振り返ると
私が本気で怒る理由は
ほぼひとつ

誤解か曲解で

それを招くような態度
例えば
一方的な決め付けとか
話を聞かないとか
外的な力による圧迫とか

そういう
一人ひとりに目を向けない
尊厳を踏みにじるような
およそすべての態度に
嫌悪感があって

それが私の目の前で
繰り広げられてるとき
私は瞬間的に反応してしまう

でもね
今の社会って
残念だけど
そんなことばかり

「自分は人を思いやらない人間です」と
わざわざ声高に主張することが
強さの証だみたいに
思われてるフシすらある

少し前までは
見るたびに嘆いてもいたけれど
何度みても許せなくて悲しいけれど
嘆くのはもうやめた
キリがないからね

少し離れた話をすれば
個人の問題だけじゃなくて
大きな社会構造そのものにも
問題がある

だけど
そんな中でも
品性を失わない人というのは
居る

他者への暖かい眼差しや敬意

周りの人々のありようを想像し
気遣う心

人はみなそれぞれの生を
いま生きているんだという実感

それが卓抜した人を
そうね年配の方が多いかな
見ていると

たった一つの体系に
囚われている私の危うさを感じる

私は自分では
普段は穏和だと思っているけれど
いざ「許せない」となったとき

自分の中に
鋭い攻撃性と残酷さを
見て取ることができる

私は別に
それがイヤなわけじゃない

むしろ
それを塗りつぶすほうが
欺瞞とすら思う

私は
そのような人々が

人々をそこまで
貶めるような社会構造が

力による制裁でしか
止まれない精神性が

とても嫌い


でも
私が嫌うような人間にさえ
礼節を保った人間を見て

なんだろうね
自分にも考えるところがあるって
思った


私の世界観にも
序列というか線引きがあって
"人間性"によって
それは定められる

そして
下位のものに対して
私は明らかに
侮蔑の感情を抱いていて
対等に扱おうなんて思っていない

そこに著しい非対称性があって
そこに足をすくわれて
私は自らの品性をも
落としていたのかもしれない

だから
ちょっと考え直したほうがいいね
怒りも私の大事な気持ち
だから捨てない

捨てないけど
もっとフラットなほうがいい

私と共存できない者は
現実には存在するかもしれないけれど
その範囲は狭いほうがいい

意識の力によるまでもなく
寛容だった私

いまや力を要することに
寂しさを覚えるけれど

その先に
より大きな自分の世界が
あるような気がする


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