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シンクポイントメモの扱い/『Re:vision』を終えて/メルマガ原稿自動化作戦 予告編/守破離について

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/08/31 第516号

○「はじめに」

最近はまっているコードエディタ「VS Code」について連載記事を書き始めました。

◇物書きが使うVS Code – R-style
https://rashita.net/blog/?tag=%e7%89%a9%e6%9b%b8%e3%81%8d%e3%81%8c%e4%bd%bf%e3%81%86vs-code

◇物書きが使うVS Code|倉下忠憲|note
https://note.com/rashita/m/m8cb14eedad2c

あくまで私の用途の紹介が中心ですが、それでもこれから使い始める人にとってのガイドになるような記事を書こうと思います。

この手の記事を書くのはひさびさなので、私も結構楽しんで書いております。

〜〜〜それを決めるのは誰?〜〜〜

「対象が悪であったら、何を言っても、何をやっても良い」という考え方のやばさは、対象が悪だと決められるのは一体誰なのだ、という点にあります。いや、もちろん人権があるので、「何を言っても、何をやっても良い」ということ自体を否定できるのですが、それ以上に前半のIF(もし対象が悪であるなら)が問題です。それを断じられるのはなぜなのでしょうか。

自分が悪だと思うから?

世間が一様に口を揃えて悪だと言っているから?

そうした判断がどんな結果を引き起こしてきたかは、歴史を振り返れば深く学べるでしょう。

対象を批判することと、対象を悪だと断罪することにはかなりの距離があります。前者をしているつもりで、後者に陥ってしまう事態は避けたいところです。

〜〜〜終わらそうとしない〜〜〜

「タスクは終わらそうとせずに、着手することだけを意識する」

というライフハック(仕事術)があります。終わらせようとしてしまうと、むしろ着手できなくなるからです。これを「達成意欲のパラドックス」と名付けましょう。

なぜこれが起きるかと言えば、視野が大きくなるからでしょう。達成するための作業全体が意識され、脳がそのために必要なエネルギーを見積もり、「困難な作業」だと断じてしまうからです。

タスクになかなか着手できないときに、ちょっとだけ自分を騙す、という手法があります。「ファイルを開くだけ、開くだけだから」と作業を限定するのです。達成意欲のパラドックスは、ちょうどこれと逆のことをやっているわけです。具体的な目先の作業から遠ざかり、「偉大な目標」ばかりに注意を向けてしまう。これでは、なかなか着手できなくて当然です。

でもってこれは、より広い対象に敷延できる話でしょう。

視線をどこに向けるかは、存在に大切な要素です。

〜〜〜普通の人とアイデア〜〜〜

書籍の企画案に関して、「普通の人はアイデアなど求めていない(だから発想法の本など売れない)」という言説をたまに耳にします。個人的にはほんとうかよと疑っているのですが、もしかしたらデータがあるのかもしれません。

私としては、一般の生活者においても(つまり、広告をなりわいとしていない人でも)アイデアは必要で、つまり発想法は役立つと思っています。だからこそ、そういうコンテンツをコツコツ発信しているわけですが、それとまったく逆の意見もあるわけです。

で、ふと考えました。私は一般の生活者でもアイデア(発想法)は有用だと思っています。一方で、「普通の人はアイデアなど求めていない」という言説があります。よくよく考えてみると、これは両立するのです。つまり、たしかにアイデアは有用なのかもしれないが、かといってそれを人が求めているわけではない、という状況はありえるのです。

そもそも、人は自らにとって有用なものを適切に求める、という前提が怪しいものです。有用であるものに気がつかずに、それを求めていない、なんてことは珍しくないでしょう。

それにTwitterなどを見ていると、現象に対して不満や文句だけを述べ、問題を解決するのはいつも自分以外の人間であると考えているように見受けられる人は少なくありません。そういう人にとっては、アイデアなど無用の長物でしょう。

「そんなことは、あなたが考えなさい。私は知りません。良い結果だけを受け取りたいのです」

……。

ちなみに、アイデアというのは、既存の問題を解決する新しい視点や手法のことであって、誰にでも思いつく(つまり当事者が検討しているに違いない)「こうすればいいのに」を解決案として提示することは含まれていません。むしろそれは、ほとんど不満とイコールでしょう。

誰でも思いつく解決策で解決できないからこそ、その問題は「問題」として存在しています。そこにひねりを加えるのがアイデアです。

たぶん、発想法について語るためには、そのあたりから話を起こしていく必要があるのでしょう。

〜〜〜音楽の力〜〜〜

朝の8時頃、喫茶店で「さあ、作業しよう」とMacBook Airを開いたら、店内から「蛍の光」が流れてきました。気分は一気に、閉店ガラガラモードです。

そのときはすぐに音楽が切り替わったので(店員さんが押すスイッチを間違えたのでしょう)、気分もすぐに戻ってきましたが、それにしても音楽が気分に与える力は強いなと感じた出来事でした。人間というのは、環境適応的な動物であり、言い換えれば、環境からの刺激に敏感なのでしょう。

〜〜〜終わることを前提とする〜〜〜

私は、一番最初に使い始めたブログサービスが途中で終了してしまった経験があるので(→『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』)、多少注意深くはありましたが、それでもEvernoteが「100年続く企業」を打ち出し、どう考えてもGoogleが潰れないような状況になってから、ITツールはずっと使えるものだという幻想を抱くようになっていました。

しかし、基本的に企業というのは潰れるものです。ある程度長く続くものもあれば、超短期で終わってしまうものなど、長さはまちまちですが、永遠に続く企業などどこにもありません。よって、企業が提供するツールは、常に「いつかそれが終わるかもしれない」ことを前提に使っていく必要があります。

おそらく、パソコン・インターネットを早くから使っている人ほどその意識は高く、最近であるほどその意識は低いのではないでしょうか。だって、巨大なIT企業はネットを使い始めたときにはすでに存在していて、そのまま存続していきそうな気配があります。まるで、インフラのような感覚があるのです。

でも、それは誤解です。企業はいつしか潰れ、ツールはある日使えなくなります。私たちはそれに備えて準備をしておかなければなりません。

むしろ、話はよりややこしいのでしょう。私たちが備えることなく、企業が提供するツールに依存すればするほど、その企業が潰れないように動くインセンティブが生まれます。それが企業の力を強めていくのです。

そのことによって、企業が生き残る可能性が強まるのは良いことなのかもしれませんし、あるいはそうではないのかもしれません。私は、後者だと最近感じています。

〜〜〜手書きで勉強ノート〜〜〜

『世界哲学史8』という本を読み始めたのですが、一章一章の内容がぎゅっと詰まっているので、それを解体するために読書ノートを作ることにしました。

◇理の研究ノート - 倉下忠憲の発想工房
https://scrapbox.io/rashitamemo/%E7%90%86%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88

まずは一通り読み終えて、その後内容を追いかけながら要素の関係性を確認していきます。

ほんとうにまあ、読んだだけでは頭に入ってきません。こうやって手を動かし、自分の言葉として表しなおすのが、一番てっとりばやい方法だったりします。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

平等な社会の実現において、他者を人として認め、その人がいるための場所を与える、というところまでは想像の範囲内です。しかし「歓待せよ」と本書は言います。「絶対的に歓待すること、彼ら全員に居場所を与え、その場所の不可侵性を宣言することこそが社会が成立するための条件である」。この指摘にはこめかみを打ち抜かれました。「歓待」はレヴィナスの概念のようなので、そちらも読み込んでみたいところです。


本書におけるストレンジャーとは「複数の国家/社会を移動し、複数の言語、文化を跨いで生きる人」のことです。そうなんですよね。strangerであるためには、移動していることが必要です。一ヶ所に留まるなら、いつしかその人は非-stranger化してしまいます。ストレンジャーは常に移動し、常に相対化を運んでくる存在で、そうした人たちを折々に歓待することがおそらく大切なのでしょう。

「1992年から2020年までの28年間に及ぶ「竹山研」の歴史を紐解く」ということで、「竹山研」が何なのかまったく知りませんが、タイトルに惹かれました。最近「庭」についてよく考えているので、たぶんそれが引っかかったのでしょう。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q.最近、何かを勉強するためのノートを作りましたか?

では、メルマガ本編を始めましょう。

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○「シンクポイントメモの扱い」 #知的生産の技術

ここまで、着想メモ・アイデアメモの扱いについてさまざまに論じてきました。

まず、私たちが思いつくものの中には、役割がはっきりしているものとそうでないものがあります。役割がはっきりしているもので、行動を表すものは「タスク」と、実行に付随する情報は「ネタ」と呼べます。

これらの管理については、既存のタスク管理技法が役立つでしょう。問題は、それ以外の着想の扱いです。むしろ知的生産では、こちらの情報をどう扱うかこそが肝と言えます。

名前がないと不便なので、そのような情報をここでは「考点」と呼んでおきましょう。英語だとシンクポイントとかになりそうですね。略してポイントです。

着想メモを書き留めることは、そのポイントを打つことだと言えます。で、PoICやEvergreen notesなどの手法は、そのポイントをつなげていくための方法です。ポイントをノードにすること。そこから、ネットワークを形成すること。これが狙いです。

■文章化

ポイントをどう扱うかの概要は以上でよいとして、実際にどのような行動が必要となるのかが次なる課題です。

まず二つの点を確認しましょう。「文章化」と「放流」です。

ポイントをノードにするためには、ポイント間を接続する必要があります。ここで必要となるのが「文章化」です。見出し的に思いついたものについて小さくまとまった文章を書くのです。

なぜ文章化が必要なのかと言えば、一つには頭の中にある状態ではその着想の輪郭線がはっきりしていないからです。ある程度はメッセージを把握できていますが、その外周はゆらゆらと揺れていて、どこまでがそのメッセージなのかが確定できていません。それでは「点」にはならないのです。

よって、ひとまとまりの文章として書き出します。点を点として確定させるのです。

■文章化の2つの効果

そうして文章化すると、二つの効果が現れます。

一つは、自分の頭の中にその概念が確立することです。これはもう、昔から情報カードを書いている人やScrapboxでこまめに文章化している人ならば体感されていることでしょう。「あれ」という風に思いついたことを思い出しやすいのです。
*逆に文章化されていないものは思い出せないのですが、そもそも思い出せていないから、思い出せていないことすら認識できません。

そうやって思い出せるようになると、ポイントとポイントを結びやすくなります。Scrapboxなら、そのための機能が充実していますし、アナログのカードに書いていても、目視サーチやインデックス経由で求めているカードを探せるなら、コネクトは実現できます。

この点に関係するのが、二つ目の効果です。

文章というのは、一次の、つまりリニアな表現です。始まりがあり、そこからまっすぐ進んで、終わりへとたどり着きます。矢印を持っているのです。これを、メッセージ・ベクトルと呼んでみましょう。

このメッセージ・ベクトルが駆動すると、他のベクトルが惹起します。

つまり、書き出したメッセージ・ベクトルをAとするならば、Aから派生する他のベクトルや、あるいはAを呼び込むベクトルなどに思考が及ぶようになるのです。別の言い方をすれば、Aとつながった着想が想起されるようになるのです。

先ほど、脳内ではメッセージの外周は揺れていると書きました。それはつまり輪郭線がはっきりしていない、ということです。上の記述と対応させるならば、そのようなものは、頭の中で一つの塊を形成していて、文章化することは、そこから一部を切り出すことだと言えます。完成したジグソーパズルから、ピースを一つ抜き出すようなものです。

当然そうしたピースがぽつんとあれば、それとつながる別のピースも切り出したくなります。それが「他のベクトルが惹起する」ということです。

このようにして、文章化すること、あるいは文章化したものを読むことで、着到がノード化していきます。

■つながりとむすびつき

ここで二つの言葉の違いについて検討しておきましょう。「つながり」と「むすびつき」です。簡単に言えば、「つながり」はフラットな関係性で、共通項を持つだけ成立するものであり、「むすびつき」はそれよりも強い関係性を指します。

たとえば、「集英社」「講談社」「小学館」は、すべて出版社という点でつながりを持っています。カテゴライズすれば、同一カテゴリーに配置されるでしょう。

一方で、私が「出版社と言えば、講談社で、講談社と言えばマガジンで、マガジンと言えば金田一だな」と連想するなら(適当な例です)、この情報は「むすびつき」を持っています。

単語レベルだと、少し分かりづらいかもしれないので、文章化したメモでも考えてみましょう。

たとえば、以前以下のようなメモを書きました。

 >>
 利便性が向上し、時間的・体力的余裕が生まれるのは素晴らしいことであるが、その際限なき追求は、人間の魂にとって、本当によいことなのだろうか。たとえば、人格形成において、あるいは社会との関係において。
 <<

さらに、このメモの下に三つの矢印を加えました。

→人は作るものであり、作られるものである
→人間と道具と創造
→身体の拡張と心の拡張

さらに、今この文章を書くために、もう一度メモを読み返して、以下の矢印を加えました。

→『バーテンダー』魂のためによいこと。モーム?

まず、最初のメモは、さまざまな「つながり」を持っています。以下にそのつながりの素(もと)をいくつか列挙してみましょう。

{利便性、利便性の向上、時間、時間的、体力、体力的、余裕、素晴らしい、追求、魂、よいこと、人格形成}

これらのキーワードを有する他の情報とこのメモは「つながっている」ことになります。それは、「出版社」という共通性で、「集英社」「講談社」「小学館」がつながっている、というのと同じことです。

しかし、そうしたつながりがあったとしても、私の知的生産的にはあまり意味がありません。辞書的なつながりの記述は、パブリックな情報分類には役立つでしょうが、それ以上のものにはならないのです。

一方で、矢印を添えて書かれた3+1のメモは違います。これらの情報の接続は、第一に私の脳内に存在するものであり、第二にであるからこそ独自性があり、第三にであるからこそ私の知的生産の素材となりうるのです。

情報をそのつながりに応じて分類し、データベースを作る行為そのものが「知的生産」になるのならばよいのですが、実際それはあくまで生産の補助的な行為にしかなりません。知的生産においては、私の「頭を働かせること」が欠かせないのです。私の脳内にあるものを、知的作用を加えて提出することが、知的生産のコアとなります。

だからこそ、Scrapboxですべての名詞(単語)をページリンクにしても役には立ちませんし、単に「つながり」を明示するハッシュタグを主軸に使うのも方向性が違っているのです。そうやってページをつなぐこと自体は間違いではありませんが、それよりも情報が持つメッセージ・ベクトルに合わせてリンクを作っていく方が、──総リンク数は減るにも関わらず
──、有用なネットワークを形成できるのです。

■おわりに

まずは、着想メモ(シンクポイントメモ)の扱い方について振り返ってみました。着想を「文章化」することで、ポイントを作り、その文章が持つベクトルによって、ノード化していく。そういう流れです。

あくまで私の体験ではありますが、単に着想を見出しだけでメモしていた頃に比べて、Scrapboxや作業記録ノートで文章化するようになってからは、脳内の「あれ」想起率がずいぶん上昇しました。すべての着想を文章化できているわけではありませんが、それでも決して小さくない変化が起きているように思います。ぜひとも、この「文章化」はやってみてください。全体として、「頭の働き方」が変わってくると思います。

というわけで、「文章化」を確認したので、次は「放流」についてですが、それは次回としましょう。自作ツールのお話もそのときにできたらと思います。

(つづく)

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