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Weekly R-style Magazine 「読む・書く・考えるの探求」 2018/11/12 第422号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

締切です。締切が迫っています。

まるで台風に追い立てられているかのように、原稿を書いています。

で、おそらく巨大な岩に追いかけられているインディ・ジョーンズがそうであるように(映画にそんなシーンがあるのかはわかりません。単によくあるイメージです)、締切に追い立てられている状況というのは、苦しくもあり、また楽しくもあります。

いや、楽しいというのとはちょっと違うかもしれませんね。なにせ精神的なプレッシャーは大きいのです。かといって、苦痛しかそこには無いのか、というと、それも違う気がします。充実感というのでもなく、やりがいというのでもなく、でも、何かしら心象風景に彩りを与えるような要素が含まれているのです。

でもって、だからこそ、人はいつまでたっても、「締切に追い立てられる」ことから逃げられないのかもしれません。

〜〜〜魔法の言葉を見つける〜〜〜

結城先生の次のツイートを読みました。

ちょうどそのとき、私は現在書き進めている本の構成について考えていて、第四章を第四章たらしめる要素について思い至りホクホクしているところでした。そして、脳内は第五章を第五章たらしめる要素の探索に向かっていたのですが、上記のツイートを読んで、ミックスジュースを作るミキサーのように脳内がぐるりと一回転しました(もちろん比喩です)。

この第四章と第五章の要素は、実はより大きな一つのことの一部なのではないか。そして、第一章〜第三章までを貫いていた要素も、実はそこに組み込まれるのではないか。

ああ、まさに、そうだったのです。

私はそのとき、本に三本の矢を通そうと頑張っていたのですが、実はその三つはそれを包括するより大きな概念に組み込まれる要素だったのです。言ってみれば、いくつかのロボットが、変形して合体し、巨大ロボに変身するような感じです。

そのとき私の心に差したのは、「ああ、自分が言いたかったのは、実はこういうことだったんだな」という奇妙なほどの納得感でした。

本を書いていると、このような納得感がしばしば訪れます。

〜〜〜無知と有知〜〜〜

無知ということについて考えた場合、私たちは皆、無知です。

たしかに個々人はそれなりに知を蓄えることができますが、その量は世界中に存在する知識の量と比較すれば誤差のようなものでしかありません。ゆえに私たちは皆無知なのです。

あるいは、どれだけ知識を蓄えようとも、私たちの知識の地図には、広大な無知の領域が広がっている、と表現してもいいでしょう。

だから、誰かを無知だと罵るのはきっと愚かなことです。誰もかれもが無知なのですから。

むしろ、目を向けるべきは、誤差のような知識の多寡ではなく、知識を得ようとするベクトルの大きさについてでしょう。

もちろん、そのベクトルが大きければ大きいほどよい、という単純な話ではありません。単に、知っていることが多いか少ないかを比べるよりも、もう少し実のある比較ができるのではないか、という話です。

〜〜〜読書信仰〜〜〜

私自身は、本を読むことを、とても大切な行為だと思っていますが、「本を読めば、世界は救われる」みたいな大げさな物言いにぶつかると、ちょっとな〜という気持ちも湧き上がります(なにせ天の邪鬼なのです)。

かといって、本を読むことが、単に「文章を読むことの、量が多い版」として軽く扱われるのも、何か違う気がします。少なくとも、本には他のメディアにはない何かがたしかにあります(あるいはそのように感じられます)。

ややこしい恋心みたいです。

〜〜〜研鑽〜〜〜

よほど強い制度や既得権益に守られていない限り、大手企業であっても、あぐらを書き続けるのは難しいでしょう。Webサービスでも、小売業でも、潰れているところは、無数にあります。

であれば、個人で仕事をする場合でもそれは同じでしょう。むしろ、庇護する組織体が存在しないのですから、求められる研鑽の度合いはより大きいかもしれません。

もちろんそれは「努力」といったことではなく、常に前を向いて歩き続けること、あるいはそれを指向することが大切だということです。

研鑽の効果というのは、直後に現れるものではありません。5年続けてきたことが突然花咲くことがあります。

だからこそ、研鑽の効能は事前には評価されにくいですし、また、それを止めたとしても突然悪くなるわけではありません。で、気がついたときには、もう手遅れということが起こりえます。なにしろ、研鑽は遅効性なので、慌てて始めても、間に合わないのですから。

〜〜レッドオーシャン化〜〜〜

レッドオーシャン、という言葉があります。競争が激化した領域のことです。

で、それほど広くない場所に、たくさんの人を集めてしまえば、その場所は急速にレッドオーシャン化してしまうでしょう。つまり、「今ブーム」というような謳い文句は、その場所のレッドーシャンナイズドを知らせるアラームになる、ということです。

で、別段レッドオーシャンになること事態は悪くはないのですが、そうような激化した競争領域においては、グレーなことに(つまりぎりぎり悪事に近接するようなことに)手を染める人の割合も増えてしまう、というのが問題となります。

この辺は、アカロフの『不道徳な見えざる手』が書いているところですが、市場においてはすべての機会が追求されるので、競争が激化してくると「ばれるとちょっとまずいかもしれないが、高い利得を得られる」方策に手を出す人が、確率論的に必ず出てきます。

だから、レッドオーシャン化した領域は、参加者だけでなく、利用者にとってもあまりよろしいものではありません。

総合的にみて、「三方良し」とは程遠い状況です。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. あなたにとって読書とは何でしょうか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週は四つの連載でお送りします。

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2018/11/12 第422号の目次
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○「Evernoteの情報のつなぎ方」 #新しい知的生産の技術
 Evernoteの整理について考えています。

○「ノートブック方式とFlowbox」 #物書きエッセイ
 Evernoteに関する試行錯誤の振り返りです。

○「『ホモ・デウス』を読む 第8回」 #今週の一冊
 ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』を読み込んでいます。

○「ライフハック超入門」 #企画案 #エッセイ
 新しい本の企画案について書いてみました。

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「Evernoteの情報のつなぎ方」 #新しい知的生産の技術

前回は、Evernoteにおける三つの関連づけを紹介しました。「ノートブック」「タグ」「目次ノート」の三つです。

今回は、ヴァネバー・ブッシュの論文を引きながら、この機能たちが、いかに「あと一歩」なのかについて考えてみます。

引用はすべて、山形浩生さんによる翻訳「考えてみるに」(※)からです。
https://cruel.org/other/aswemaythink/aswemaythink.pdf

まず、ブッシュはメメックスの本質的な特徴をこう言い表します。

 >>
 関連づけた索引というのは、どんな項目であれ、好きな時に即座かつ自動的に他の項目を選択するようにできる、という発想だ。これがメメックスの本質的な特徴となる。
 <<

たとえば、Aという項目があり、Bという項目があるとします。利用者がAとBを関連づけた場合、Aが表示されるどんな場合であっても、Bが表示され、かつ選択できるようになっている、というのがメメックスの機能です。

では、その関連づけはどのように行われるのでしょうか。

 >>
 利用者が道筋を作るとき、それに名前をつけて、それを符号帳に挿入し、それをキーボードで叩き出す。すると目の前に関連づけられるべき二つのアイテムがあらわれ、隣接して見られるよう投影される。それぞれの下部には空白の符号用の場所がたくさんあって、そのそれぞれを指し示すポインタがセットされている。利用者は一つキーを押し、するとそのアイテムは永遠に関連づけられる。
 <<

ここは、少しややこしいかもしれません。まず、「道筋」という言葉が出てきています。これは「文脈」と言い換えてもよいでしょうし、人間の「連想」と言い換えてもよいでしょう。私たちが、あるもの(ある情報)から、別のもの(別の情報)へと渡り歩いていく一つのルートのことです。

メメックスのポイントは、その「道筋」を保存できることであり、それによって情報を呼び出せることにあります。では、どうやってその道筋を作るのか。

まず、利用者は何かをキーボードに打ち込みます。何を打ち込むのかと言えば、その筋道について自分がつけた名前です。たとえば「19世紀における人文主義の復興」とか「Evernoteの効率性をあげるスクリプト」とかになるでしょう。

すると、メメックスはその道筋(文脈)において「関連づけられるべき二つのアイテム」を表示させます。その表は、それらのアイテムが同時に閲覧できるようなUIです。で、利用者が「OK」とか「確定」とか「Link」とか、何かそういったボタンを押せば、表示された二つのアイテムは関連づけされます。

まずここで、一つの疑問が出てきます。その「関連づけられるべき二つのアイテム」は、どのようにセレクトされるのでしょうか。定義からいって、そのアイテムは(少なくとも自分によっては)関連づけされていません。つまり、自分が想定するもの以外の関連づけが、そこでは必要になります。

現代的な技術を背景に解釈すれば、たとえば道筋の名前に含まれたキーワードを有する項目、あるいはアルゴリズム的な推論による関連性の提示のどちらかがありえるでしょう。ついでに言えば、私たちが、GoogleやAmazonを検索したときに得られる、「もしかして、これでは?」というような推量を含むものも「関連づけられるべき」アイテムとして表示されると良いかもしれません。

ともかく、そうして得られた「関連づけられるべきアイテム群」から、利用者はアイテムを選択して関連づけを行うことになります。

まず、この点において、Evernoteはかなり貧弱です。

それを確認するために、すべての機能は同一で、しかし世界中の全WebページがEvernoteに保存されている状況を想像してみましょう。あるいは、Evernoteの中からGoogleが検索でき、検索結果一つひとつをEvernoteのノートのように扱える機能が追加されたと仮定しても構いません。ようするに、Webサイトをクリッピングする、という手間を省いて思考実験したいわけです。

仮にそのような状態のEvernoteがあったとして、「19世紀における人文主義の復興」というキーワードを検索ボックスに打ち込んだとしましょう。そして、何かすごいアルゴリズムが、しかるべきページ群(ノート群)を表示させたとします。

そのとき、私はいったいどうやってそれらのページを関連づけたらよいでしょうか。

最初に書いた通り、Evernoteには3つの整理軸があります。ノートブック、タグ、ノートです。

この中で、まずノートブックがまったく役に立ちません。「19世紀における人文主義の復興」のような道筋(連想)は、いくつも起こりますし、Evernoteのノートブック数上限(1,000)ではとても足りないでしょう。

仮にその上限が撤廃されたとしても問題は残ります。

まず、検索結果が出た状態では、ノートブックは存在していないので、それを作らなければいけません。当然、検索結果はいったん破棄されます。で、ノートブックができた後で、もう一度検索して、そこにノートを移動させることになります。あくまでイメージでしかありませんが、イメージの段階でもう面倒です。

せめて「これらのノートから、ノートブックを作成する」というコマンドがあればいいのですが、それはありません。ノートブックは先に作っておき、そこに向かってノートを放り込むためにしか使えないのです。

また、仮にそのようなコマンドがあったとしても、問題は残ります。たとえば、「19世紀における人文主義の復興」というノートブックがあり、そこに19世紀ヨーロッパの民衆の教育に関する資料が入っていたとします。おそらくその資料は、「人類の大学の歴史」という文脈でも参照できるでしょう。Evernoteのノートブックでは、その状況にまったく対応できません。

一つのノートブックに入れたノートは、別のノートブックに入れることはできず、またエイリアスのようなものを作ることもできません。情報が所属できる文脈が、そのノートブック一つに限定されてしまうのです。

以上のようなことから、私たちの自由な連想の網の目を捉えるのには、ノートブックは使えないことになります。

■おわりに

では、タグはどうでしょうか、という話を続けようかと思ったのですが、長くなってきたので次回に譲ります。

(つづく)

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